義務教育論争に終止符を 学歴主義者と低学歴者層の抗争問題について言及した記事です

義務教育(高等教育)

義務教育論争

義務教育に関する論争、もう辞めませんか。
既存の学校制度を活用して成功した人物は自らの経験から義務教育を正当化します。
学校制度から外れた人生で成果を挙げた人物は義務教育を非難します。
どちらも、自己の努力や経験が優れていると他者に押し付けるのです。
でなければ、自分の生き方を周囲に肯定させることが出来ませんから。
著者にも気持ちは理解できるつもりです。
私は義務教育で勉強を一才しませんでした。
なぜなら、つまらないからです。
文字を右から左に写す作業、誰かが解いた問題を再び解き直す作業、資本主義たる日本の社会構造を類推するのであれば「学校」の「勉強」と「仕事」の関係性が優れないことは明白です。
学校教育の方針は、労働力と経済力は「努力」に依存していると仮定された上で運営されています。
しかし、経済活動で重要となる考え方は「努力」と真逆のプロセスになります。
日本の学校では子供を「規格化」するために「画一的」な教育を施します。 
さらに、子供を「規格化」するためには「模範」が必要です。
大量生産の工場を創造してください。
その、一つ一つの商品に個性はありませんよね。
義務教育も同じです。
「模範」を教育における「目標」(子供がなるべき姿)に定めて、社会に売り出す商品に加工するのです。
でなければ、その途中経過で生じる「評価」を教育現場で定めることは困難です。
大量生産される商品にも「金型」(模範)が存在します。
工場では「金型」とは異なる「商品」は「不良品」として扱われます。
これら「商品」を生産するためには「金型」と比較して「不良品」を見つけなければなりません。
だから「模範」がなければ「教育」は成立しないのです。
そのため、子供に内在する「答え」(模範)がある課題や問題に対処する能力が顕在化するのです。
この「答え」がある課題や問題とは、勉強のみならず「校則」などの日々の生活における慣習の刷り込みも含みます。
これらの教育では「答え」が存在する問題や課題に対して「みんな」で対処する構造が生まれるのです。
勉強は「みんな」が学びます。
つまり「みんな」が「できる」ことです。
しかし、社会では「みんな」が「できない」ことに価値が生まれます。
子供を「規格化」する過程において「答え」を設けているのですから、それに応じた「勉強」は「みんな」が「模範」とする「商品」に似ようとする心理を誘発します。
ですから、現在の社会で求められる「価値」を生み出す行為に立脚した「みんな」が「できない」ことに意義があるのだとする原理と、義務教育の性質の相性は良くはありません。
さらに、「みんな」が「する」ことを「真似る」義務教育では「努力」と「我慢」が重要です。
「みんな」と同じことを「する」のですから、努力や我慢が多い人物の成績が上がり周囲から評価を得る構造であると言えます。
すると、必然的に努力や我慢が「素晴らしい」とする固定観念が生まれるのです。
ですが、社会では「努力」や「我慢」を減らすことで「利益」を見込めます。
義務教育とは正反対です。

このような理由から、私は義務教育に不信感を抱いています。
幼い頃から「学校の勉強」は「無意味」であると考えていましたから、いざ社会に出ると「本当に無意味」であることに気が付きました。
著者は、学校で教職員に異端児として迫害された経験があります。
教職員の中には「勉強しないと底辺職しか就けない」と「ブルーカラー」を嘲笑う風潮もありましたから非常に気分が悪かったです。
仕事に「良し」「悪し」はありません。
また「答え」がある「勉強」を教え慣れている教職員は自らの「生き方」が御手本であるかのように振る舞います。
「物事に対する捉え方」や「とある分野」に関する能力が教職員よりも優れている事例(個人の生き方として)があるにも関わらず「全て」において「子供」を「仕切りたがる」のです。
だから「勉強」を「強要」します。
「勉強」を通して「努力」してきた自己を「模範」として教育に投影しているのですから、子供を支配してしまう原理にも納得です。
このように「勉強をしないと苦労する」と言われてきた学校生活でしたが、大学、就職、そして仕事において「勉強をしてこなかった」ことを理由に「苦労」したことは、ほとんどありません。
「義務教育とは何だったのだろうか」とする気持ちで一杯です。
ですから、本来であれば声高々に「学校は無意味」であると広言したい気分です。
ですが「学校の勉強」が「無意味」である主張は「私だから」そのように言えるのです。
「学校の意味」は「周囲」の人々が決めるものではありません。
「学校の意味」は「自分」で見出すことに意義があります。
著者は学校の成績に「1」か「2」しかありませんでした。
勉強をしない理由は「つまらない」そして「無意味」だからです。
このように、教育から与えられる人的資本を拒んでいたにも関わらず「就職」や「仕事」で困ることは一切ありませんでした。
つまり「学校」が「無意味」であることが証明されたのです。
誰からも「教わる」ことなく「生きていける」のですから、人生は「楽勝」です。
そのため、凡ゆる事柄が「簡単」に感じます。
なので、仕事や就職で経済的に困窮する人物の気持ちが理解できません。
ここでは、著者の自慢話を聞かせたいのではありません。
世の中は不平等であることを伝えています。
何もしないで成功する人物も存在すれば、潤沢な教育投資をしたにも関わらずに成果が出せない人物もいるのです。
著者は趣味で、このような記事を書いていますが、誰かにその知識を教わったのではありません。
不思議なことに生得的にこれらの「知識」が備わっているのです。
なにも私だけが「特別」なのではありません。
就職活動を例に挙げましょう。
著者は多くの学生の動向を観察してきました。
そこでは、学力の有無に関わらず結果に対する「優劣」が不規則に生じるのです。

上記の記事(URL)で紹介しているように、面接で黙り込む学生が存在します。
彼らに黙り込んではならない理由を聞いても答えられません。
「普通」に考えれば「分かる」だろう、そのようなことすら知らないのです。
ですが、これら「普通」が「分かる」学生と「分からない」学生の存在は不規則(学力に限らず)に二つに分かれます。
私の「普通」(分かる学生)と彼ら(分からない学生)の「普通」が示す価値観が異なることが原因でしょう。
ならば、「普通」も「分からない」人物には「誰か」が、その「知識」を「教え」なければなりません。
義務教育における「無意味」の価値観も全く同じです。
学校が「無意味」である人物は「教わらなくとも」生きていけます。
しかし、学校が「無意味」ではない人物は「言われ」(教わる)なければ、生きていけません。
学校に「意味」を抱く価値観には「個人差」があるのです。
就職活動での面接を取り上げると、「黙り込んではいけない」ことを「知らない」人物は、これらの講義(黙り込んではならないことを指導する講義)に「意味」を感じるでしょう。ですが、「黙り込んではいけない」ことに対して「当たり前だろ」と理由を含めて理解しているのであれば、その講義に参加する「意味」は薄れます。
ですから、義務教育が「無意味」であるかどうかは「自己」の問題なのです。

されど、ほとんどの人間が他者の生き方を非難します。
自分とは異なる「生き方」を認められないのでしょうか。
義務教育による恩恵で成功している人々は、自己の行為を正当化するために、学校や勉強の価値を昇華します。
「勉強も出来ない人間に何が出来る」「学校でも学ぶことはある」このように。
そもそも、学力の有無と「何ができる」つまり「何か」を定義していない状態で、その関連性を憶測で推察しているのですから論理が破綻しています。
さらに、「何か」である物事(仕事など)を定めたとして、勉強の作用と能力的な関連性を測ることは極めて難しいと言えます。
ですが、勉強や学校に固執する人々は、何故だか「勉強」に費やす努力のプロセスを得た後に、その「成果」がなければ納得しません。
自己の経験を絶対的な順序として踏襲されなければ気が済まないのでしょう。
教育現場でも、このような大人が辿る順序を絶対的な基準として定めている傾向が多いように感じます。
私が学校の教職員から言われた内容を抜粋します。
「言われたこともできないのに他に何ができるの?」つまり、受動的な課題を熟せなければ自主的な分野や環境においてもパフォーマンを発揮することができないのだと、絶対的な順序を定めているのです。
「まずは、言われたことを素直に取り組む、それが出来たら自由に応用をしよう」このように。
他にも、自習を同一の机で集団で行い、それが出来たのであれば個人での学習が許される等の謎文化も過去にはありました。
しかし、自主的(自由)な環境を初めから好み、そこでパフォーマンスを発揮できる人物も特異的には存在します。
万人に共通する物事の明白的な順序は存在せず、これを勝手な価値観から強要する社会に嫌気を刺した人物が既存の教育制度を批判する気持ちは理解できます。

さらに、既存の制度に盲信する人々に「学校に通う意味(勉強や学校って何の役に立つの?)」を尋ねると必ず以下のような返答をします。
「〇〇は学校教育で学ぶ応用だよ」「〇〇(科目など)が〇〇(仕事など)では使われているんだよ」これらを根拠に「ほら、役に立ったじゃん」と口を揃えて主張します。
馬鹿なのでしょうね。
そもそも、世の中に「役立たない」ものなどはありません。
それを「活かすか」「殺すか」が本人次第なのです。
世の中には喧嘩が強いことから、格闘技やYouTubeで生計を立てるような人物が存在するくらいです。
喧嘩が強いことは、世の中で「役に立つ」とは言えません。
そう、我々には。
ですが、一般的な価値観として「役に立つ」ことがない「喧嘩」を「役に立つ」ものに変貌させる人物もいるのです。
そのため、生きるために「役立つ」ものとは人それぞれです。
「勉強」が「役立つ」と主張しても、人物次第では「役に立つ」ことも「役に立たない」ことにも繋がります。
さらに、「役立つ」とは「何か」に与える影響力を表します。
「勉強」が「役立つ」とする有用性は、その与える影響力の範囲により証明されるのです。

人物次第では「役に立たない」ことにも繋がると述べましたが、厳密には該当する「役に立つ」領域が狭小なために、その行為に費やす時間や労力が無駄であることを示します。
そもそも、何事においても「役に立たない」(ベン図ならば二つの円が交わらない)ものは存在しません。
「喧嘩」の技能と「勉強」に活かせる可能性が「ゼロ」であると断言することは出来ませんよね。
「喧嘩」が得意なことが、数学の問題を解くための思考で「1%」も影響を与えていないと断言できますか?
そして、その影響力を完全に否定することは困難です。
ですから「役に立つ」かどうかは総体的な比較により優先度が定まります。

喧嘩が「メチャクチャ」強ければ、学力を伸ばして経済活動(金を稼ぐ)に従事するよりも、格闘家として「生きる」ことが充実した人生を送れる可能性もあるのです。
これらは、大袈裟の例えと言えますが、学校や勉強における「役に立つ」指標は万能ではありません。
ですから、勉強や学校で養われる「役に立つ」領域を比較すると、既存の教育システムを活用しないことで得られる「役に立つ」ことも認めるべきなのです。
「麦わら帽子」を被り「学校に行くな」と主張するユーチューバーに対して「学校で学ぶこともある」と反論したとしても、その学ぶ必要性が「有用性」(役に立つ)に立脚していることを踏まえると、これらの優先度(学校に通うか動画投稿をするか)は比較により定められますから、結局のところは「学校で学ぶ」重要性は阻却されるのです。
「麦わら帽子」の「ユーチューバー」は「学校に通うことで得られる利益」と「学校に通わないことで得られる利益」を比較考慮した結果として「不登校」の選択をしたのです。
この「不登校」の選択は結果による判断(将来的に自立可能か)に正当性が委ねられていることから、現在において「正しい」かどうかを論議するつもりはありません。
しかし、社会で「役に立つ」全ての根底は「学校」に由来するものだとする主張は余りにも暴論です。

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