「人生は冒険だ‼︎ ロボットになるな‼︎」この考え方実は正しいです。

義務教育(高等教育)
著者
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学校に行くな ロボットになるな

著者は義務教育を批判しているように見えますが正反対です。
むしろ、義務教育の重要性を説いています。
義務教育では「ルール」や「校則」、「先生の指示」を「受け身」で守ることが望まれているのですから、教育を通して自己の思考機能が衰える(ロボットになる)ことが懸念されているのです。
今回は、義務教育が人格(性格)の形成に及ぼす影響、そして、ロボットになることの是非について触れます。  

義務教育に適応すると知能が低下するのか?

まず、義務教育を受けると知能が低下(ロボットになる)するようなことはありません。
厳密には、義務教育と知能の関連性を証明できないことから否定も肯定も不可能です。
義務教育で学ぶ勉強、それと知能指数(IQ)は相関係数(勉強をすると知能指数が向上する)にありますが、ならば、賢い人間とは知能指数が高い人物を指すのでしょうか?
そもそも、賢い人間とは?知能とは?
定義は困難です。
ですから、定義が難しい概念を踏まえた問題を議論する意味はありません。

前述でも説明しましたが、義務教育を受けると知能が低下する(ロボットになる)旨の主張は暴論のように思えます。
たしかに、義務教育では慣習の刷り込み、権威主義の浸透、同調圧力や協調性、これらの価値観を植え付けます。
そして、人間を馬鹿にする方法は疑問を与えないことです。
疑問は思考の始まりです。
思考は反逆の始まりです。
これが、独裁者が情報操作に拘る理由です。
馬鹿な人間は思考を放棄します。
そして、馬鹿を統率することは容易です。
まさしく、官僚制ですね。
公務員の試験では「馬鹿」を採用するのですが、これは行政の作用と官僚制の本質を踏まえた現象だと言えます。

思考を放棄した人々は、権威に決定権を委ねます。
だから、馬鹿は統率に優れるのです。
義務教育の「規格化」も同じです。
学校に通うことで「馬鹿」になるのです。
…いえ、著者はそうは思いません。
なぜなら、洗脳教育と揶揄できるほど、人格形成における選択権を教育機関に侵害(強制)されていないからです。
もちろん、日々の学校生活では慣習の刷り込みが行われています。
ですから、人格形成に教育が及ぼす影響が全くないとは断言できません。
されど、人格を歪める洗脳と呼べるほど強制された環境ではないことは確かです。
もしも、現在の教育プログラムで人格形成を掌握できるのであれば、それは、人間を構成する遺伝子の領域に打ち勝ったことになります。
残念ながら、人間は遺伝子の配列には逆らえません。
近年では「努力できる才能」も「遺伝子」に基づくものだとする研究が物議を醸しました。
それくらい遺伝子が人間を支配する領域は膨大だと言えるのです。
そのため、安易に後天的な要素(教育)が人格形成に介入する余地は非常に少ないです。
教育が、遺伝子を超えた影響力を人間に及ぼすのであれば、現在の社会はマシなものだったでしょう。
能力的な差異も人格的な差異も顕在化しない世の中なのですから、誰もが劣等感とは無縁です。
ですが、社会を観察してください。
そう言うことです。
著者は思います。
現在の教育システムは洗脳と定義するには余りにも貧弱です。
インターネットやスマートフォン、情報には困りません。
そして、教職員に指示に従わなくとも体罰を振るわれることはありません。
人間が遺伝子に打ち勝つ要件は一つです。
それは、命の危機に直面したときです。
日本の学校教育で「命の危機」を感じたことはありますか?
ないはずです。
洗脳は「命の危機」を利用します。
体罰はそれを模した行為です。
だから、現在の教育では遺伝子の領域を超えること極めて困難だと言えます。
結論から述べます。
「自らが自由意思で義務教育に思考を委ねる決定をした者が支配を受けるシステム」これが学校教育の本質です。
義務教育を受けることで馬鹿にはなりません。
馬鹿は遺伝子で決まります。
教育は遺伝子には勝てません。
自らの選択で、教育の迎合(規格化)を受け入れたのです。
その意思の決定権は強制されず、義務教育は適応する人材の来訪を拒みません。
洗脳には選択の余地はないのですから。
現在の教育システムは、子供が取捨選択(思考できる余裕がある教育)可能な自由意思の領域が多いのです。
現に優秀な人物は教育の有無に関わらず社会で成果を得ています。日本の教育が洗脳ならば、優秀な人物が顕在化する確率は低いと言えます。
そのため、学校に通うと馬鹿(ロボット)になるのではなく、馬鹿(ロボット)が学校に通うと馬鹿(ロボット)になるのです。
そのままです。

ロボットになることは悪なのか?

世の中には本当に馬鹿が多いです。
誰かになることで幸せになれると勘違いしている人々がいます。 
隣の芝生は青い。
主観的な人間は自分が見た光景を好きなように解釈します。
それを、自己の逃避(言い訳)に使うのです。
「あの人は仕事が出来て羨ましい」「あの人の能力が羨ましい」このように。
そして「あの人になれたのならばな」と願うものです。
ですが、羨望する「あの人」にも悩みはあります。
馬鹿は主観的です。
自分が見える範囲で物事を判断します。
ここでは、仕事が出来ない逃避として「仕事が出来るあの人」を空想で作り上げて勝手に羨望しているのです。
義務教育の物議も同じです。
ロボットになることが「悪いこと」だと思い込んでいる人々がいます。
ロボットになること、すなわち、従順や素直な性格を指します。
そもそも、性格に良し悪しはありません。
従順や素直ではない性格である著者は友人から言われます。
「お前みたいにハッキリと意見を意思表示できる性格になりたい」このように。
理解不能です。
なりたい?
著者は自らが望んで「自己の性格」を形成したのではありません。
そんなことができたのならば苦労はありません。
そして、人間ですらありません。
神です。
著者は友人に尋ねました。
「意見を主張できない消極的な性格になりたい」と。
ついでに「なり方を教えてくれ」とも。
そしたら、友人は黙りました。
著者に自己主張したい欲求はありません。少なくとも気持ちでは。
しかし、自分の意思に限らず口が開くのです。
意見を主張できない人物も、自分の意思に限らず消極的な性格であるのと全く同じです。
そして、その友人は「なろう」(積極的な性格)としています。
「なろう」とする意思は、「なれた」到達点が理想の状態である前提が必要です。
つまり、理想でなければ目的(目標)を設定(なろうとする意思)しないのですから、自己と異なる性質(誰かになること)を羨望していることは確かです。誰も悪い状態に「なりたい」とは思いませんよね。いじめられている友人を見て「僕もいじめられる性格になりたい」と思う人物はサイコパスか何かでしょう。
少なくとも、羨望する本人は「良い状態」として捉えている故に「なりたい」と発言します。
義務教育で議論される「ロボット」、ならないことを理想とする幻想、間違いです。
「ロボットになりたくない」と願うであれば、それは、ロボットと相対する性質を求めている意思です。
義務教育では、思考を奪うための規格化、そして、権威を用いて疑問を抱かせない人格の形成を促進します。
ロボットを否定する人々は、学校教育で刷り込まれる価値観を基準とした対偶を理想の状態に昇華する作業を脳内で処理しています。
つまり「なりたい」と。
残念ながら「ロボット」になるかどうかの意思決定の思考(「なりたい」「なりたくない」とする意思)はあれど、選択の余地は「遺伝子」に委ねられているのですから、どうにもなりません。
もしも、ロボットになるはずの人物が「遺伝子」に反した選択をしたらどうでしょう。
「才能」や「能力」は「遺伝子」で決まります。
優秀ではない人物がロボットを拒んだとしても「ロボット気質」の性格や能力が変わることはありません。
問題点はここにあります。

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