義務教育論争に終止符を 学歴主義者と低学歴者層の抗争問題について言及した記事です

義務教育(高等教育)
世間
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学校に通う意味はある

人それぞれです。
義務教育に対して「批判的」な人々も、自己の経験から「既存」の「社会システム」を活用する人物を否定します。
「義務教育」に通うと「ロボット」(馬鹿)になる、これらが代表的な義務教育に対する非難です。

最近では、将棋の藤井聡太五冠が中卒であることにプラスのイメージを抱くような論調が感じられます。
スポーツ選手や芸能人、有名人、経営者、彼らが低学歴というだけで悦に浸るのです。
「こんなに凄い人物でも低学歴なんだから」このように。
これらを根拠にして「学校は無意味」であると主張するのです。
「学校に通わなくとも成功」できるのだと。
さらに、馬鹿は口先揃えて「貧困が無くならないのは役に立たない勉強を教えるからだ」と騒ぎ立てます。
「お金の勉強」、馬鹿が大好きな言葉です。
義務教育で「お金の勉強」を導入することで貧困が無くなることはまずないでしょう。
「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」この言葉が示すように、経済や社会は日々変化しているのですから、「お金の勉強」を導入するにしても「教える」ことは困難です。
また、「答え」がある「勉強」とは異なり、確約された「ゴール」がありません。
なので、「努力」が「成果」に繋がりにくいことで「能力主義」を促進させますから、格差は「学力」により「優劣」が定められる現代社会よりも広がると予想されるのです。
学校の勉強は「無意味」だから「お金の勉強」が重要である、これらは自己が「有意義」だと主張する「もの」に都合よく入れ替えたに過ぎません。

著者
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義務教育に否定的な成功者が「お金の勉強」の重要性を説いても意味がありません。成功に繋がる「お金の勉強」、それは成功者が得意(成功者<凡人)な単元なのですから、逆には「苦手」な人物が多いことを示します。義務教育を非難する仮定で、教育の内容である「役に立つ」を吟味する必要性は薄いように感じます。結局は「勉強」が最善の選択(内容)なのでしょう。

そして、問題は本人に帰属するだけに留まらないのですから、極めて厄介と言えます。
学校教育による恩恵を享受せずに成功した人々は「学校は無意味」だと考えています。
ですから、自身の子供にも「学校は無意味」であると教えるのです。
これは、成功者だけに限りません。
下層階級の家庭では、学力についての信憑性が欠けているため、子供に対する「努力する動機付け」が不十分です。
保護者が「勉強」や「学校」は「無意味」であると考えているのですから、それに伴う子供の「行動」も消極化するでしょう。
以下は、内田樹の著書である下流志向の引用です。

自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力してもしかたがない」という結論を出しているのは、いちばん多くのリスクを被っている階層なのです。…このリスク社会における生存競争において有利な位置を占めているのは、僕たちの努力が必ずしも報われないリスク社会であるという基礎的事実に逆らって、依然と努力している人々なのです。「努力と成果の相関がもはや信じられない」リスク社会において、それでもなお「努力と成果の相関を信じることができる」人々が社会的なリソースを獲得する可能性が高い…
※リスク社会=努力や学力、学歴などから期待できるリターンの不確実性 
引用:内田樹「下流志向」
著者
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義務教育や学校制度について深堀したい方にはオススメの本です。
他にも、内田樹さんの著書は面白いので是非〜

さてと。
…「自分」と「子供」は血縁関係はあれど「別人」なのです。
そのため、自己が成功した「やり方」を踏襲させることで「子供」も報われるとする確証はありません。
あなたが、金儲け(学校に通わなくとも生きる力)に長けているとしても、子供にその能力が引き継がれているかは「運」なのですから、神にしか分からないのです。
義務教育の恩恵から成功した人物は、自身の子供に「とりあえず」勉強の重要性を解きます。
能力が求められる「自由な生き方」と、既存の仕組みを活用した「馬鹿な生き方」、圧倒的に後者の「生き方」にリスクヘッジが具備されていると言えます。
そのため、自身が成功した事例から「子供」に「学校」又は「勉強」をさせない選択をさせる保護者は考えを改めるべきです。
反対に、義務教育による恩恵から「とりあえず」子供に「勉強」をさせようとする保護者は、その選択で多大な損失を被るリスクは比較的に低いように思えます。
義務教育を非難する人物は、周囲に自己の正当性を吹聴するに飽き足らずに「子供」にまでこれらの価値観を押し付けるのですから厄介です。
人間には「向き不向き」があるのですから、それぞれに「適した」生き方を尊重しましょう。
自己を正当化するために価値観を押し付ける行為は、義務教育を「肯定する人物」と「批判する人物」も、その本質は遜色ないと言えるのです。

君はこんな生き方をしてるんだね

君はこんな生き方で成功したんだね

それぞれの「生き方」があるんだね
リスペクトしよう

著者
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様々の「生き方」があるのですから尊重しましょう。

人間は不平等な生き物です。
読書のみなさんは「ポケモン」をご存知でしょうか。
「ポケモン」の「ゲーム」には「個体値」と呼ばれる概念が存在します。
これは「ポケモン」を捕まえた際に予め定められている「能力」です。
「ポケモン」の「アニメ」では、個体値が低いことを理由に捕まえた「ポケモン」を「逃す」「シンジ」と呼ばれる「キャラクター」が物議を醸したりもしました。
そこで、主人公である「サトシ」は「シンジ」に対して「感情論」や「努力・気合い」を押し付ける描写が面白かったりもします。
「アニメ」ではあたかも「シンジ」が悪役として描かれていますが、現実の世の中にも「向き不向き」をつかさどる「遺伝子」と呼ばれる生得的な「個体値」が存在するのです。
人間は目視が可能な肉体的(外見や身長)な違いは受け入れるのですが、それが困難な事柄(知能など)については平等だと幻想を抱きます。
それは、目に見えないことで「平等」である希望が残されているからでしょう。
日本の義務教育は「平等」を前提に成り立っています。
授業においても「足し算引き算」を習う学年の子供が「掛け算」で問題を答案したことで不正解にさせられたニュースが物議を醸しましたよね。
これらは、子供に「優れている」「劣っている」などの序列を定めることで「劣等感」に繋がる恐れを懸念した対応であると言えます。
ちなみに、「優れている」に普遍的な定義はありません。
過去においては「みんなと同じである」ことが「優れている」と考えられてましたし、現在の論調では「金を稼ぐ(自立する生き方)」能力が賛美されています。
ですから、環境や状況に応じて変化する言葉の定義に執着(同調してしまうからダメなんだ等で劣等感を抱く必要はない)する必要はないように思います。
現在では「得意」なことを「伸ばそう」とする考え方が認められてきていますが、それでも「学校教育」は「遺伝子」を嫌います。
最も教育現場で多用される言葉は「命は平等」です。
「命は平等」と教えることで「人間の価値」に優劣はないと子供に認識させます。
これにより「自殺」などの被害を防ごうというのです。
しかし、著者には逆効果に思えます。
「命は平等」であると教え込まれた子供は、社会に出てから苦難するでしょう。
「平等」であるはずの「僕」が「不平等」な扱いを受けているのはなぜ、このように。
残念ながら「命は平等」ではありません。
価値があります。
厳格には「価値」は「社会」により定められますから、普遍的な意味はありません。
その環境において「求められる」価値を「演出」することが重要だと言えるのです。
「命は平等」と認識することで「与えられる」ことが当然だとする「受動的」な性質が生まれます。
何もせずとも、他の人々と等しい「平等」、つまり「権利」や「扱い」がされると期待するのです。
しかし、不平等な世界を自覚する人物は「自身」の「価値」を「能動的」に売り込みます。
でなければ、自己の「価値」が承認されない現実を知っているからです。
「されること」(与えられる)が当然だとする考え方は、これらに由来するのでしょう。
「命が平等」な「義務教育」は「等しく」保護者や国が「金を払っているから」相手にされている構造を忘れてはいけません。
ですから、むしろ学校教育では「命は平等」ではないことを子供に教えるべきのように感じます。
そして、これらの「平等」教育では、ポテンシャルまでが「平等」であるとする価値観を子供に植え付けます。
学校教育では、テストは「100点満点」です。勉強のみならず日々の生活にも「模範」となる「上限」があります。
テストにおいて「98点」や「95点」は誤差です。
誰しもが「努力」すれば「高得点」を取れるのですから、義務教育では「向き不向き」が「努力」で隠される性質があるように感じられます。
ところが、社会には「上限」がありません。
学校の「テスト」では、その差は「99」以下でしょう。さらに、誰もが努力をすれば、その差異は微々たるものに縮まります。
ところが「貧乏人」と「金持ち」の懸隔は「努力」では補える乖離ではありません。
「テスト」の点数で押し測るとすれば「0点」と「1000点」のような「差」です。
「努力」することで、誰しもが同じ「成果」を出せる仕組みは「学校」のみですから、それに付随して「能力」について義務教育で言及されることは少ないのです。
これらが、世の中が「平等」であるかのように錯覚する原因の一つであると言えます。
「平等」な義務教育を得た人物は思うでしょう。
学校に通わず(勉強や努力をしないで)成功する人物は「インチキ」であると。
前述したように「何もせず」とも天性的な性質から「生きる」こと(就職や仕事)が「簡単」とする人物はいます。
しかし、「平等」を信じる人物は、これらの原理が理解できません。
生まれつき「優秀」な人物は存在しない、そのため「学校」に通わずに「成功」している人物は努力や我慢が欠如しているのだから、その功績は「インチキ」である、このように言うのです。
ですが、実際には「不平等」である真実に気が付いているようにも感じられます。
「不平等」である現実を逃避する過程として「平等」を掲げて「成功者」を非難しているのです。
「平等」でないことを認めてしまうと、自己が優れていない存在である現実を受け入れる必要がありますから。
世の中には「何もせず」とも、自己のポテンシャルから「成功」する人物が存在します。
彼らは、生得的にポテンシャルが高いのですから「学校教育」を活用せずとも生きていけるのです。
このように、義務教育に絶対的な信頼を置いている人物は「平等」である社会に幻想を抱いているようにも思えます。

過度な平等教育

障害者は養護学校に通わせるべきでしょう。
身体的な障害者を除いて、健常者と知能的な障害者を同じ環境で育てることは非常に難しいと言えます。
なぜだか、保護者は自身の子供を養護学校に通わせることを拒むのです。
果たして、障害者が健常者として生きていくことが幸せなのでしょうか。
著者には中学生の頃に「アスペルガー症候群」の友人がいました。
その病気について、周囲の友人は理解がありましたから、可能な限り配慮した生活をしていたのですが、ある時に事件が発生しました。
当時は学校の男子全体で流行りの「ゲーム」をプレイしていたのですが、その話題を持ち出すと「アスペルガー症候群」の友人は騒ぎ始めるのです。
彼が激怒した理由とは「ゲーム」の中で「狩られるモンスター」が「可哀想」だからです。
そして、その「ゲーム」の話題を出すたびに「モンスターを虐めるな」と騒ぎだすのですから、周囲の友人は彼を避けるようになりました。
結果的に「アスペルガー症候群」の友人は不登校になったのですが、これが「幸せ」であるとは思えません。
ここで、偽善者は言うでしょう。
ならば「ゲーム」を我慢すればいいじゃん、このように。
中学生の子供に「そこまで」の配慮を求める行為が「正しい」と考えているのではあれば恐ろしいことです。
配慮とは、自己の権利を相手に譲渡することで成り立ちます。
「アスペルガー症候群」の彼を「満たす」ためには「他の友人」が「ゲーム」を「我慢」することが必要です。
すると、「他の友人」は「アスペルガー症候群」の彼に配慮した結果として「傷付く(ゲームができない損失)」のです。
また、「他の友人」が配慮せず「ゲーム」をしたとしても、「アスペルガー症候群」である彼は「傷付く」でしょう。
つまり、障害者を健常者と同じ環境で育てることで「互いに損失」を被る恐れがあるのです。
一人の人間を満たすために「環境」が望むものを「与える」だろうとする思考は「平等教育」に立脚する弊害だと言えます。

私が義務教育で学んだこと

著者は学校に通うことで「仕事」に「役に立つ」習慣が一つ身に付きました。
もちろん、自覚が無いだけで社会で活かせる能力が一定の範囲で培われていたことは確かでしょう。
その、学校教育による影響で養われた習慣とは「文字」を書くことです。
これだけは、学校に通わなければ身に付かなかったように感じます。
著者が中学生の頃です。 
感想文などの提出物を八割以上の文字で埋めなければならないとするルールが担任の教員により定められていました。
なので、数十字程度しか書けない内容でも文章を盛り字数を稼いだのです。
そのため、当時はその指導に反感を抱いてました。
ですが、社会に出ると「文字」を書く機会が非常に多く「くだらない内容」でも書類を埋める必要があったのです(公務員なので..)。
そのため、論文なども「適当」に字数を稼ぐことも可能になりました。
義務教育で習慣として刷り込まれた「文字」を書くこと、このように「何が人生で役に立つ」のかは分からないのです。

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