「いじめ」の構造と被害者の対応要領 なぜ人間社会はいじめを許容するのか

義務教育(高等教育)

イジメで悩んでいる生徒や学生対象とした記事です。
イジメにおける保護者の対応にも焦点を当てます。
「イジメられる方」にも責任はあるのか?
「イジメらる」理由はあるのか?
誰も教えない「イジメの本質」を深堀します。
イジメられる原因といじめの構造、イジメへの対処法、まずは「知ること」から現状を打開しましょう。

いじめる心理

なぜ、イジメが無くならないのでしょうか。
それは、イジメが楽しいからです。
残念ながらイジメは娯楽の一種です。
例えば、テレビゲームをプレイしていて倒したモンスターの気持ちをいちいち考えませんよね。
他にも、我々は肉を食します。
肉を食べるために殺される動物達の感情を考える人間はごく稀です。
我々は理解しているはず。人間は肉を食べずとも生きていけることを。
では、他の動物の生命を脅かしてまで肉を食べる理由とは何でしょうか。
それは、美味しいからです。
人間は自己の感情的な欲求を満たすためには、どんな残酷な所業も厭わない動物だと言えます。
「人間の本性は性悪説である」まさに、荀子の言う通りですね。
イジメにも深い理由はありません。
単純明快です。
「楽しいから」
それ以上でも、それ以下でもありません。
我々が肉を食べる感覚と同じく「イジメっ子」は「イジメられる側」の存在を自己欲求を満たす「道具」としてしか認識していないのです。
「イジメられる側」にも感情はあると主張したところで無意味です。
「だからなに?」これがイジメる側の心理と言えます。
「食べられる動物」にも感情はあると主張したところで、「だからなに?美味しいじゃん」と反論する感覚と全く同じです。
そもそも、人間は太古の昔から「イジメ」が大好きでした。
王様が国民を虐げたり、貴族が平民を見下したり、他国を侵略したり、やりたい放題です。
これらの歴史は「イジメ」ではなく「支配」する心理と言えるのですが、どちらも本質は変わりません。
誰かを支配したい欲求、まさしく「イジメ」です。
どちらも「楽しい」のですから。
人間の感情は生命を維持するための危機察知機能を有しています。
「楽しい」などのプラスの感情は生命を存続させる良好な状況(環境)だと感覚から行動に反映させます。「楽しいこと」は継続して続けますから「生命を存続」させる最善の状態を長引かせるのです。
しかし「辛い」など、マイナスな感情は生命の存続に適していない状況(環境)であると感覚から行動に反映させるように促します。
「辛いこと」は「避け」ますよね。
その「避ける」行動が危機的状況から生命を守るのです。
ですから、危機的な状況を避けるために「マイナスな感情」が防衛機能として生命を存続させる役割を担うのです。
「イジメ」が「楽しい」理由と「イジメ」が「辛い」と感じる原因は、どちらも「自己防衛」に基づきます。
「イジメ」や「支配」が「楽しい」、すなわち「生命の存続」と結びつく理由はシンプルです。
まず「イジメ」や「支配」は「加虐」を通して相手を懐柔させますから、その行為を継続している限りは「自己」が「下」(支配される側)として認識される可能性は極めて低くなります。
自分は「下」ではないと、「上」の地位を証明する(上下の関係性を維持する)手段として「イジメ」などの明確化した行為で示すのです。
人間に限らず地位や立場の優劣は実力で示すしかありません。
まさに、シマウマがライオンの存在を感知して一目散に逃げる関係です。
シマウマはライオンに敵わない(実力差)ことを経験を通して学んでいます。
ですから「逃げる」のです。
しかし、シマウマがライオンよりも強ければ、その侍従関係は破綻します。
強いという「実力」が覆されたからです。
そのため、その「実力」は継続して権威を持ち続ける必要があります。
人間社会でも「上」に君臨すれば「下」の地位に落ちることはありません。
ですが、あくまで「上」に相応しい「実力」を常に兼ね揃えている条件が付随します。
その主従関係を維持する「実力」を行為と行動で明確化する手段が「イジメ」なのです。
内容は逸れますが、人間は「上」や「下」の主従関係を作るのが大好きな生き物です。
過去には「勝ち組」と「負け組」の言葉がありましたし、現在では「陰キャ」や「陽キャ」の区別が教育現場を中心として蔓延しています。
これらも、優劣を図る指標であることから「上下関係」を言葉で明確にしたいのでしょう。
言葉(若しくは暴力)で「自己」の地位を主張できるのですから、「実力」を行為や行動で示す現象と本質は変わりません。
「イジメ」の行為は人間以外の動物にも存在します。
そして、「イジメ」の対象となる個体は「弱い」のです。
弱い個体や異端者を「イジメ」る生物、同種間であれば衰えている個体を排斥することで「優秀」な遺伝子のみが残ります。
優れた個体を残すために「イジメ」をするのだとしたら納得できますよね。
しかし、人間おいて「優れた遺伝子」とはなんでしょうか。
現在の人間社会では「暴力」による上下関係は構築されません。
力が強いことで「王様」になれる、いつの時代でしょう。
ですが、幼い子供(特に男子)は特に「力」にコンプレックを抱きます。
不思議です。
動物の「イジメ」が優れた遺伝子を残すための行為であるとしても、人間については「劣っている」から「淘汰」されるのではないように感じます。
「イジメ」は「弱い」又は「異なる性質」から「被害者」が選出される構造です。ならば「弱い」や「異なる性質」が人間として「劣っている」のでしょうか。
違いますよね。
さらに、人間には「イジメ」の因子が誰にでもあるのですから、「加害者」にも「被害者」にもなり得るのです。
「イジメ」をする心理は「セックス」にもあります。
まず、性別を超えた「イジメ」が少ない現状から推察できるように、同性間での「イジメ」が主流です。
男は男を、女は女を、それぞれ「イジメ」るのです。
著者は「イジメ」と「セックス」の関係性が深いよに感じられるのですが、その根拠は不十分ですので以下に持論で解説します。
幼少期から学童期、すなわち小学校の低学年までは性別を超えた「イジメ」が目立ちます。
これらの年齢だと「イジメ」と言うよりは「イジリ」や「カラカイ」に近いのですが、言葉の定義は本人の認識次第ですので触れないでおきます。
著者は、幼い子供を観察していると性別を超えた関係性が構築されているように思えるのです。
例えば、男女でお風呂に入ったり、男女で殴り合ったり、このように。
年齢を重ねるごとに「性」を意識します。
そのため、異性とお風呂に入る文化は混浴を除いてはありません。また、男性は女性に暴力を振るうことを躊躇うものです。
しかし、幼い子供は、これら性別の垣根がありません。
お風呂も男女で入りますし、男児でも女児を殴ります。
ですから、「イジメ」も「男女」の垣根を越えるのでしょう。
しかし、年齢を重ねるごとに「同性間」での「イジメ」が主流となります。
それは「性」を意識するからです。
つまり「セックス」したい欲求です。
幼少期や学童期の子供は「男女」の違い(体や精神的な)を認識していても「別の動物」が存在するくらいにしか思えません。
小学校に入学前の児童であれば「違い」すら認識できない可能性もあります。
性別の認識が難しいのですから、子供は自己の区分を「人間」と言う一つの括りに捉えているのかもしれません。
だから「男女」を問わず「平等」に「イジメ」るのです。
しかし「性の芽生え」から異性に好かれることが「生命の存続」に繋がることを理解します。
小学校に入学した子供は「男女」の区別(存在)はできますが「自分とは違う存在」としての認識や把握が限界でしょう。
ですが、徐々に芽生える「性」の感覚から、オスはメスに、メスはオスを「セックス」の対象として「好かれる」ことに価値観を置くのです。 
それと相関するように「イジメ」の対象も「異性」を標的から外します。
なので「イジメ」と「セックス」の関係性は大きいのです。
同性を「イジメ」の対象とする理由は「セックス」できないからでしょう。
そして「性の芽生え」から「同性同士」は互いを「敵視」します。
人間に限らず凡ゆる動物は「同性」を「ライバル」として認識するのです。
自己の生存欲求は「セックス」を通して「自己の遺伝子」を残すことにも繋がるのですから、良質な「子孫」を生み出す「異性」の存在は「他者」を蹴り落としてでも「手に入れたい」ものです。
「イジメ」や「支配」は主従関係から「異性」と「セックス」できる環境を整える作業でもあります。
異性と「セックス」するためには「同性」の存在は邪魔です。
極論ではありますが、自己を除く「同性」が全て潰えたのであれば「セックス」の欲求を十分に満たすことができます。
そして「イジメ」の構造は、それを模しています。
「イジメ」の理由を人間の本質に照らし合わせると、イジメられる人間の生命を自己の「セックス」のために奪うことを目的としているのです。
つまり、本能的には「死んでほしい」から「イジメ」ています。
同性が多く死ぬほど、自分が異性と「セックス」できる確率は高まりますから。
このような、本能的な性質から「イジメ」は根強く存在することを踏まえて「どうしてイジメるの」などの問いは不問でしょう。
「イジメ」の理由は楽しいから。
楽しい感情は生命を長引かせるため。
生命を長引かせるためには「セックス」が必要ですので、その手段として同性を蹴落とします。

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