学校教育の議論で「何かと」話題に上がる「数学」の存在、本当に重要なのでしょうか。
「数学」は「勉強」や「学問」には欠かせない分野であるとされています。
「数学」を学ぶ過程で基礎的な思考構造が形成されることから、仕事や他の学問にも通ずる「万能」な「科目」として学校教育では、その役割を期待されているのです。
それどころか、社会生活の営みを豊かにする手段であるとも。
本記事では「数学」が思考に及ぼす影響、そして、数学や算数を学ぶことの重要性を説きます。
数学が思考に与える影響
以下の文献からヒントを得ます
数学の問題を解く過程では様々な試行錯誤が必要とされる。その際、特徴的なことは、面白いアイディアは必ずしも論理的な考えから出てくるわけではないが、そのアイディアをもとに問題を解決していく過程では論理的な思考が重要であることである。また、得られた解答を論理的に説明することによって万人が理解できるようになる。他者とのコミュニケーションは言葉と論理に基づいているが、その基礎は数学の学習を通して身につけることができる。
[引用 日本学術会議数学研究連絡委員会附置 数学教育小委員会]
引用した主な内容は、数学を解く過程における試行錯誤が論理的な思考を培うものであると説明されています。
また、同文献では以下の能力が数学の学習で身につけられるのだとか。
構造を把握する能力(客観視?)
物事を抽象化する能力
さらに、文科省が提示する「算数・数学科において育成を目指す資質・能力の整理」では、数学教育の目標として「思考力・判断力・表現力等」の能力向上を促す効果が期待されると論じられています。
「数学の事象について統合的・発展的に考え、 問題を解決することで、日常生活や社会の事象を数理的に捉え、 数学的に処理し、問題を自立的に解決できる」とも。
このような「能力」は「生活の質」を高める「道具」としては、欠かせない存在です。
さらに、社会生活を営む上で所得の補償は重要であると言えます。理系と文系の所得調査では、理系の学部生に平均年収の軍配が上がることから、数学が学校教育で重宝される理由は明白です。
ですから、親や教員は子供の「数学」の「成績」に拘るのです。
ですが、数学や算数の学習と「能力」の関連性については未だに「ブラックボックス」と化しています。
なのに、凡ゆる「文献」には「数学」が「能力」に齎す影響についてを「過大評価」している傾向があります。
数学が思考や能力に影響を及ぼすのであれば、数学が得意な人物の行動や行為は自然と最適化されるはず、そのような仮説から以下の記事では内容を論じています。
そもそも、学校で学ぶ「勉強」には意味があるのでしょうか。
子供は疑問に思うはずです。
「勉強は何の役に立つのか」と。
数学も同様です。
「数学は何の役に立つのか」と。
子供の疑問を晴らすために大人は答えます。
両親や学校の先生、インターネットの情報、メディア、彼らは子供たちに「高尚な理由」を吹き込むのです。
著者は、数学(又は勉強)が能力や思考構造に与える影響は僅かであると考えます。
特に義務教育や高等教育で学ぶ算数又は数学から得られる効果には期待できません。
それは、上記の関連記事(リンク)で論じたように、必ずしも「勉強(数学)が得意な人物」が「賢い行い」をするとは限らないからです。
もちろん、世の中の凡ゆる事柄には「例外」が含まれています。
そのため、このような「例外」を排斥しなければ議論は進みません。
しかし、「例外」として扱うにしては「勉強が得意」な「馬鹿」の割合は高いように思えます。
著者は公務員でした。
更には公務員志望の学生と多く関わってきました。
彼らは「勉強」の「成績」は良いのです。
ですが、蓋を開けてみると茫然自失。
詳細は「公務員採用試験対策」の記事を参照下さい。
義務教育で学ぶ算数や数学では、大人が望むような能力は身に付かない
著者は思います。
世の中に「全幅な能力」は存在しないと。
数学の学習を通して行われる試行錯誤の過程が「論理的」な「知性」を誕生させるのであれば、勉強は馬鹿を救います。
しかし、馬鹿は学力の有無に関わらず馬鹿のままです。
なぜでしょう。
その理由は、人間の知能や思考構造は複雑さ故に抽象化することが困難だからです。
それぞれの能力は独立して分布しています。
畑を素手で耕す行為に疑問(A)を持てたとしても、他の方法を模索しようとする思考又は他の方法の存在を認識する思考が無ければ問題を課題(B)として捉えることは出来ません。
ですから、数学(勉強)が思考や行動に及ぼす影響は軽微であると言えるのです。
それを、子供に勉強を押し付ける大人は「全幅な能力」として「生きる力」が養われる旨の主張を展開します。
ですが、能力相互の関係性が否定できない場合も視野に入れなければなりません。
「疑問を持つ能力(A)」の前提が「課題を見つける能力(B)」に影響を及ぼしたことは確かです。
畑を素手で耕す行為に順応(疑問に感じない)しているようでは、自身の行為を問題であると捉えることは困難でしょう。
「疑問を持つ能力(A)」を養うことで「課題を見つける能力(B)」が身に付くとまでは言えませんが、その要件を満たす道具(手段)であることは間違いです。
ここで、以下に引用を抜粋しました。
……適性と能力にみあった別々のことを学ぶ。医学部なら医学、法学部なら法律、文学部なら文学。その中でも専門分野が細かく分かれていて、すべて必要とされる能力が違う。 将棋の藤井聡太五冠は、将棋はめちゃくちゃ強いけど、チェスをやれば普通なんだそうです。それと同じで、専門家は、数学でも、微分積分はすごく得意でも、数論はまったくわかりませんというような世界なのです。専門では、得意な分野がひとつあればよく、あとは不得手でもかまわない。これが職業の実態です。 (引用 : 橋爪 大三郎 東京工業大学名誉教授 https://toyokeizai.net/articles/-/541116?page=2)
そのため、数学の勉強が「何の」役に立つ(能力に繋がる)のかは不明確ですが、「何かしら」の「トリガー」となる余地を含むことは確かです。
数学を学ぶことで、例えば「論理的な思考能力」が養われるとする定説には同意できませんが、それは反対に、相互の関係性(数学の学習と論理性)を完全には否定できないことになります。
義務教育で学ぶ算数や数学には「どれくらい」の効果が期待できるのでしょうか。
非常に興味があります。
ですが、結局は「分からない」が結論です。
義務教育で学ぶ「算数」や「数学」が及ぼす知能への影響、文科省では数学教育が日常生活における思考力と判断能力の向上を促進する科目であると期待しているようですが、学校の成績が優秀な人物が優れた功績又は行為や行動に繁栄されない現状から推察すると、その目的は達成されているとは言えません。
ならば、本来の数学教育が想定しているであろう「数学」の「学び」を通して、各々の「能力」に影響することはあるのだろうか。
実際のところ、学校教育では、本来の「数学」を学んでいない可能性があります。
数学を含む学校の授業は、受験のために最適化された「勉強」です。
公式の丸暗記、仮説や答案までの過程を考慮しない効率的な結論、現在の学校教育では「なんで?」「どうして?」を省いた「受験のための勉強」を学びます。
ですから、「本当の意味の数学」を理解していない子供は、その学びの効果を得ることは出来ません。
著者は法学部でした。
そこで、知り合いから「法学部の学生は法律を暗記するだけ」と揶揄された記憶があります。
嫌味で述べた趣旨かは不明です。
しかし、著者は「は?」と思いました。
もしも、本心ならば、法学の学びが丸暗記の作業であると認識していることになります。
数学を研究する学者の方々も、現在の義務教育で学ぶ「数学」を「数学とは呼べないもの」として憤りを感じているかもしれません。
著者は義務教育で習う「数学」しか知りません。
ですから、本質とされる「数学」を学ぶことで得られる効果については言及できない立場にあります。
現在の学校で学ぶ「数学」の授業は、本質(本当の意味)としての「数学」であると言えるのでしょうか。