義務教育の課題とは 日本の教育が直面している課題を深堀します

義務教育(高等教育)

義務教育の課題

現在の教育現場は過渡期を迎えています。
その理由は、社会が求める人材が目まぐるしく変化しているからです。
従来であれば「言われた作業」を盲目的に熟す人物が「良い」とされてきましたが、現在では「新たな価値」を想像できる人物が優れているとする評価が定着してきました。
そもそも、教育とは社会が求める人材を輩出することを目的に整備されている制度であります。
そのため、義務教育の課題とは「社会」の「要求」に応じられるかどうかです。

著者
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(要するに)「昔はあのやり方で成功していたけど現在はそぐわないよね..」ということです。

努力や我慢が美徳である価値観は「社畜として働くこと」を理想とします。
ですから、就職活動で学生は「働ける」ことに無上の喜びを抱くのです。
著者は疑問に感じます。
公務員の試験を指導していると、学生は「辛い」勉強に一生懸命に取り組むのです。
「辛いこと」を通過儀礼としなければ「働くこと」ができない社会システムが不思議でなりません。
仕事は「辛い」ものです。
「辛い」から仕事には「金銭」が発生します。
「楽しい」ことは「金銭」がなくとも誰かがやりますよね。
ですから、「辛い」仕事をするために、「辛い」勉強をする奇妙な行動に懐疑的な思いが生まれるのです。
義務教育では「辛い」仕事に従事させるために、子供に「仕事」に就けることの「ありがたみ」を刷り込みます。
そのための「学力」や「学歴」です。
仕事に就けることの難易度を高めると必然的に人々はその行為(仕事)が「素晴らしいもの 」であると錯覚します。
単純な仕事であっても、難易度と倍率が高ければ「立派な仕事」であると認識される現象と似ています。
従来であれば、「辛い仕事」に従事させることを目的として日本の発展に教育は寄与していました。
しかし、現在では「辛い」仕事を回避することによる「利益」や、「楽しんだ者勝ち」の文化が顕在化しています。
「辛い」ことである「努力」や「我慢」に「耐える」ために存在する学校教育。
しかし、現在の社会では「努力」や「我慢」、それに類する行為を抑える発想が重要なのです。
従来の社会制度はある一定の努力をすれば、その労力が利益に還元される仕組みでした。その由来から、学校教育でも努力の強要が浸透していたのです。
ですが、現在の社会では「努力の簡略化」や「みんなが出来ないこと」において、価値や利益が見込まれる世の中に変化しています。
学校で刷り込ませる習慣や知識は「AI」が「得意」とする分野です。
人間は「努力」や「我慢」が苦手な動物です。
苦手である「努力」や「我慢」は、社会を機能させるための「潤滑油」の役割を担います。「潤滑油」が無ければ「歯車」は回りません。
ですから、教育では「努力」や「我慢」の重要性を解くのです。
しかし、人間の本質として「努力」や「我慢」が嫌いなことには変わりません。
そこで、人々は「努力」や「我慢」を減らす方法を必死に考えました。
畑を耕すことが辛ければ道具を作ろう、道具で耕すことが辛ければ機械を導入しよう、このように。
義務教育では「答え」がある「勉強」を習います。
だから「楽」をする方法を学ばないのです。
「分からなければ調べれば良い」つまり「カンニング」です。
もしも、漢字が分からないのであれば、覚えるのではなく「ググれ」ば良いのです。
ですが、義務教育では「ググれ」ば良いとする意見に対して「努力」や「我慢」を用いて批判します。
著者の経験の基づく憶測ですが、勉強が得意な人物の多くが「知識量」で「優劣」を決める傾向があるように感じます。
著者は法学部でしたから議論する機会がありました。
そこで、ほとんどの学生は「分からない」と言えないのです。
その理由は議論の「勝ち負け」を「知識量」に委ねているからだと言えます。
「分からない」のであれば「聞けば」よいのです。
されど「聞く」ことは「教わる」行為に該当しますからプライドが許さないのでしょう。
これからの社会で求められる能力とは、まさに「ググる」ことのように思えます。
そして、機械があるにも関わらず「努力」や「我慢」から「手作業」で畑を耕す行為では、他の農家に遅れをとるでしょう。
これらの弊害として、無駄な「努力」を肯定する人物が跡を立ちません。
著者は大学生と接する機会が多いのですが、彼は本当に不思議な行動をします。
あえて、自分を「苦しめる」のです。
例えば、一時間の労働で「500円」もらえる仕事があると仮定します。さらに、一分の労働で「500円」もらえる仕事も存在します。
通常であれば誰もが「一分で500円」もらえる仕事を選ぶはずです。
しかし、ほとんどの学生が「一時間の労働で500円」をもらう選択をします。
ですから、社会は「非合理」且つ「非効率的」な仕組みを迎合しているのです。
現在の社会では、「努力」や「我慢」を削減することで「利益」が生まれます。
そのため、「努力」や「我慢」は「機械」つまり「AI」に取られる対象になるでしょう。
義務教育の問題点は「無くなる仕事」や「求められていない人材」を育成してしまう構造にあります。
さらに、学校では「無くなる仕事」や「求められていない人材」を社会に輩出する過程で、あたかも、これらの価値観が「優れている」と義務教育を踏襲した人々が錯覚する悪循環を含むのです。
我々の文明は絶えず発展しているのですが、結局のところ最終的に人間が関与できる仕事の領域は「エンタメ」と「クリエイティブ」のように感じます。
「シンギュラリティ」の到来が予想される現代社会で「努力」や「我慢」は徐々に淘汰されるでしょう。
教育も、時代に応じた「形」に変わらなければ「シンギュラリティ」に対応することは難しいと言えます。
義務教育の問題点は他に存在します。
果たして「個性」を認めるような「教育」は正解なのでしょうか。 
「努力」や「我慢」を排斥すると、学校教育は「能力主義」に舵を切ります。
前述したように、「努力」や「我慢」は「答え」がある「課題」や「問題」に対処するための「手段」です。
これらを排斥したのであれば、子供には「自由」を享受する権利が生まれます。
そして、「自由」には「代償」が伴うのです。
だから、責任が取れない子供は「みんな」と「同じ」環境で「規格化」される教育を受け入れなければならないのです。
著者の持論でありますが、個性を認める教育は個性を有する子供が大多数を占める状況でなければ成立しないように思えます。
個人的な見解として、特別な才能や能力を生得的に有している人物は僅かです。
その、僅かな人々が残す功績(起業したり)から、自由な生き方や個性を認める論調が強まるのですが、実際に教育現場で「少数派」が「得」をするような制度を構築するのであれば、これらの結末は火を見るより明らかだと言えます。

著者
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社会や個人に関わらず学校や勉強が「役に立つ」指標はそれぞれ異なります。
過渡期である現在も「支える役割」を教育する学校やその手段である勉強は、依然として社会の需要に応じる効力を残しているのです。

社会が必要とする能力は、偏差値や学力では測れません。
非認知能力の存在が求められるのであれば、後天的な教育投資が子供に与える影響は軽微であり、生得的な「能力」や「才能」、つまり、多用されるインターネットスラングを用いれば「遺伝ガチャ」が重要である社会の到来を示します。 
「個性」を認める教育、「個性」を認める社会、これらは「能力主義」を加速させるでしょう。

著者
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現在の経済活動にそぐわない学校教育 
それでは学校に通うことは間違いなのでしょうか。

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