学校に通う理由はあるのか、情報社会で浮き彫りになる学校の形骸化と存在意義

義務教育(高等教育)

学校に通う理由とは

学校に通う理由とは何でしょうか?
本来、学校とは国を強くするため、そして、戦争に勝つために設立された制度です。
つまり、国家に利益を与える人材の輩出を目的として学校教育は成立しています。そのため、初等教育をはじめとした公立学校では厳格な教育指針が文科省監督のもと定められており逸脱は許されません。
現在でも教育の自由には大きな制約が課され、国家が求める「理想的な人間(都合が良い人物)」が生産されるシステムであると言えます。
国家が求める「理想的な人間」とは「社会に適した人材」です。
「社会に適した人材」は「社会」で「貢献」する故に、結果的に資本が蓄積され、国家に富をもたらします。このような「富をもたらす存在」を確実に生み出すことを目標に日本の教育は指針を定めているのです。
ですから、学校(教育)とは「社会に適した人材」を育成するための機関であると言えます。
それでは、社会に適した人材の定義とは。

上記の理由が教育の目的です。
ですから、学校に通う理由は教育を受ける意味と同義であると言えます。
そのために、学校教育では子供を「規格化」します。
個性の剥奪です。
悪く言えば、同調圧力。
良く言えば、協調性。
そうして、周囲と同じであることが望ましいと教育を受けるのです。
学校に通う意味は「規格化」にあります。
「規格化」は社会が求める人材を育成するために、それに応じた水準に教育カリキュラを設定します。
要するに「平均化」です。
制度やシステムは平均的な人間が活用できなければ意味がありません。
ですから、現在の教育システムも社会が求める水準である「平均化」された人材が「規格化」され、人的資源として消費される構造が整備されているのです。

つまり、学校に通わなければならない人物とは「平均的」又は「平均以下」のポテンシャルを有する子供です。
ですので、ほとんどの子供は学校教育の洗礼である「規格化」を受け入れなければなりません。
もしも、学校に通わなければ、社会システムに適応することは難しいでしょう。
多くの人間が「自分は特別だ」「自分には才能や能力がある」と思い込みたいものです。
されど、残念なことに、あなたは凡人です。
学校に通う理由、勉強をする理由、これらは共通して無能のために用意された救済処置なのです。

優秀な人間とは、平均以上のポテンシャルを発揮します。
なので、義務教育が施す規格化の洗礼を受けずとも社会システムの活用が可能なのです。
頭が悪ければ社会システムに適応する方法は「規格化」のみですから、学校に通う重要性は十分にあります。
そして、自分の存在が客観視(優秀であるかどうか)できるまで年月を要します。少なくとも、小学生や中学生が「僕は優秀だから学校に通わなくとも生きていける」と自負することはありません。
ですから、救済処置としての学校や勉強が大切なのです。
そして、教育による「規格化」、このような慣習の刷り込みが「悪い事」であるとする認識は間違いです。

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著者
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学校に通う重要性は他にもあります。

著者は現在の学校教育を称賛します。
なぜなら、学校教育は忠実に模擬社会を再現しているからです。
不条理で理不尽な社会、まさに学校です。
学校での授業や生活、指導、部活、友人関係、その全てが社会人になるための練習になります。
著者のブログを以前から読まれている方は、私の経歴をご存知でしょう。
ここでは、著者の職歴には触れませんが、学校は社会の構造を模していると言えます。
著者は幼少期に思いました。
「大人は学校に通わないから羨ましい」このように。
しかし、就職して分かりました。
社会と学校は何一つ変わらないと。
もちろん、著者の職歴が特殊な業種(詳細はブログを読んで下さい)故に抱いた感情でしょう。
しかし、官民問わず新卒採用制度(詳細)が存在する意義を考えると、やはり、社会人としての仕事や生活と、学校で刷り込まれる習慣は似ています。
特に、学校では勉強を「教える」先生と、それを「教わる」子供の構造から、トップダウンを模していると言えます。

このように、学校教育は社会(仕事)を忠実に再現している環境なのです。
さらに、社会を忠実に模した学校では、「規格化」の工程として子供に耐性を付与します。
食品の生産や加工に例えると、食品添加物である保存料を混入させる作業でしょう。
保存料は細菌から食品を守ります。
しかし、添加物の食品ばかりを摂取することで体に悪影響も。(現在では食品添加物の安全性は向上)
まさに、義務教育です。
学校では、努力すること、我慢すること、批判されること、これらの耐性を保存料として人格に混入します。
そのため、耐性が付いた人物は社会の理不尽な仕打ち(細菌)から身を守れます。しかし、添加物同様に耐性を付けることで弊害も生じるのです。
詳細は以下の記事を参照下さい。

それでも、社会生活を営むためには耐性は必要だと言えます。
学校の友人や教職員、人間関係は必ずしも上手くいくとは限りません。
学校は「思い通りに事が進まない」現実を知る機会であると考えます。
著者は学校教育に馴染めず、勉強も一切しませんでした。
ですが、中学と高校は皆勤賞で卒業しました。

著者
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結果論ですが、学校をサボらず良かったなと思っています。

学校で学んだこと。
それは、物事が自分の思い通りにならないことです。
主に人間関係が該当します。
「徹底的に話し合っても分かり合えない人がいる」
著者は学校で学びました。
話し合えば解決する、このような「思い通りの筋書き」を否定した存在が学校です。
人間関係において耐性を得るために「思い通りに事が進まない」現実を理解する必要はあると言えます。
学校に通うことで発見できたこと。
著者は学校に通わなければ「学校がつまらない」と気が付くことは無かったでしょう。
他にも、物事の「在り方」について疑問を与えてくれた環境は間違いなく「学校」です。
もしも、誰とも関わらずに成長していたら、疑問すら生まれません。
「思考」は他者を含む比較対象があるから生まれるのです。

馬鹿と共同で生活することで「馬鹿」を認識できます。
学校に通うことで、学校の「在り方」に疑問を持てます。
「これって矛盾しない?」
「これって間違えてない?」
「これって非合理的だよね?」
凡ゆる物事は経験から成り立つのです。
勉強も同様です。

以下引用: 福岡伸一氏 
「人間は最初から自由にはなれないわけですね。自由とは、不自由を尽くしてみて初めて実感できること。だからまずは我慢して不自由な勉強をしてみることに意味があるのです」
参考元

著者は「勉強」が不自由であることを知ることで「学問」に興味を持てました。
まずは「しなければ」何も分かりません。
得意なこと。
苦手なこと。
さらに、著者が「凡人ほど学校に通え」と釘を刺す理由は、特出する「才能」や「能力」を持ち合わせていない子供は、網羅的にスキルを磨く必要があるからです。
学校に通うことで「具体的」に「何の能力」に繋がるのか判断はできません。
しかし、学校での生活や勉強は、様々な経験と訓練(教育)を子供に与えます。
勉強だけではありません。
日々の生活も含みます。
学校では「いろんなこと」に「チャレンジ」する機会から、子供の「能力」が高められるのです。

自分の性格と合わない(学校と自分が)ということもその環境を経験しなければ合わないと気が付くことはできません。また、合わない環境であったとしても社会で生き抜く能力が不足しているのであればその環境の中で生きることが無難です。

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