近頃の傾向として学校の校則に関する議論が活発化しています。
そもそも、なぜ学校の校則に対する懐疑的な運動が活性化しているのでしょうか。
それは、情報化社会に伴い国民一人一人が自己に必要な行為を取捨選択できるようになったからです。
例えば、科学者を目指すのであれば理科を、数学者を目指すのであれば算数を、これらが透明化した弊害として科学者を目指しているのに数学を学ばされる反感が世論として芽生えています。
そして、理不尽や不平等などのネガティブな感情も「個人による取捨選択が可能となった社会」による弊害であると言えます。
このネガティブな感情が個人の主観に帰属している以上は、その価値観に物事の是非が委ねられるのです。
世論が断罪するブラック校則とは、人々の価値観として「理不尽」で「必要」がないとする共通認識が生み出した定義です。
なので、人々の共通認識による裁量で校則の是非が定められるのです。
その証拠に多くの人々が必要であると認識する校則、具体的な事例を挙げるのであれば、君が代起立斉唱拒否事件や剣道実技拒否事件等も広義的に捉えれば校則ではあるが、世論は最高裁による判決に固執せず大多数の認識としてこれら学校の規律や校則には寛容的です。
そのため、理不尽や必要であるとの認識は人々の価値観により異なり、大多数が共通する認識が校則の是非を問う立場にあるのです。
その共通認識に欠かせない意思の伝播を活性化させた手段が紛れもなくインターネットを始めとした情報化社会による穏健なのですから、情報が如何に人々の世論に影響を及ぼすのかが分かります。
学校が生徒に対して校則を科す理由は二つです。
一つは教育のため。
もう一つの理由は学校秩序の維持。
校則を設ける理由が教育のためであれば、その過程を踏襲した結果として人々は社会を構成するので、これらを評論する立場にあることは納得です。なので、学校教育が左右する社会情勢から世論による干渉を受けることは正常で、さらに、仕組みの改革も柔軟に対応できます。
しかし、校則の理由が学校秩序の維持となる場合には、その課題が多く発生します。
その理由は、世論が不干渉となる範囲にある問題だからです。
まず、学校の校則に関して人々は認識として大きな勘違いをしています。
それは、生徒は学校の校則に従う必要はないと言うことです。
学校の校則に従うことが義務であり、逆らえないものだとする考え方が人々に心身ともに束縛される危機感(自由への束縛)を植え付け強い反発心を煽るのです。
厳密に定義すれば、校則に従う義務はあるが強制されない自由を有する、という認識で大丈夫でしょう。
当然ですが、校則に違反した生徒に刑事責任を問う権限は学校にはありません。
そして、刑事責任を除く身体又は財産を侵害する手段は法が定めるところに限定されており、そこに学校が準司法権たる作用を認める法令は存在しません。
学校教育法には「児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる」とありますが、これは人権を制約する規定ではありません。
人々は学校が生徒に対して行使できる懲戒権を、刑事罰に匹敵する強権であると勘違いしている傾向にありますが、まずはその認識を改めなければなりません。
まず、学校における懲戒権とは生徒に対して指導や規律、校則を科すことを認めている権限です。
具体的な行為として「叱る」などが挙げられます。
例えば、生徒が授業中にスマホを操作していると仮定した場合に教師は「叱る」ことができます。
されど、その叱る行為は法律が定める範囲から逸脱することで違法な行為と判断される場合もあるのです。
教師が生徒を「叱る」行為が、「懲りずにスマホの操作を継続している場合に怒鳴りつける」「スマホを取り上げる」これらの行為において生徒の反抗を抑圧するに足りる程度であった場合には強要、脅迫、強盗などの法規に抵触する可能性があります。
当然ですが、学校の校則が法律に優越することはなく、法律の適用は学校も例外ではありません。
判例研究を踏襲する必要もなく、紛れもない事実として校則よりも法律が優先されます。
そのため、学校が有する懲戒権とは各種刑法等が定める違法行為を阻却する程度には含みません。
しかし、具体的な事例から問題を提起するのであれば懲戒権が各種法令の一部に被り、違法性の阻却事由として認められる余地を残すことは考えられます。
本来であれば義務なきことを強制する行為は強要罪として処罰されますが、教職員という立場から生徒に一定の制約を課すことは許容される範囲です。
先程の事例を挙げるとスマホの操作を継続する生徒に対して激しい叱責をした場合には、義務なき不作為を強要することになりますので、本来であれば違法的な行為です。
しかし、校則の制定が学校教育法上に定められている背景にはその意義が肯定されている証拠ゆえにスマホの操作に関して不作為を求める行為が義務なき行為であるとは言えず、一定の条件では阻却事由が認められる可能性はあります。
ですが、論点となる義務なき行為として、その意義の正当性が担保されているかの判断は個別具体的な事例に委ねられていることから、様々な状況から鑑みて是非が定まります。
そのため、「義務なき行為とは何か」において教師と生徒が争う余地を残した曖昧で複雑な状況下で擬律判断が求められる行為であるため、各種刑法の適用が阻却されることを積極的に期待するものではないでしょう。
そもそも、学校教育法に定められた懲戒とは退学、停学、訓告等の「手続き」による処分を主に定めています。叱責や注意、掃除、居残り、これら行為を下命する懲戒権も教職員には与えられていますが、憲法は苦役に服させられない自由を人々に保障している以上は作為または不作為は本人の自由意思を尊重しなければなりません。
これらを拡大解釈した結果として、現在の世論的な錯覚が反感を招いています。
人々は学校における校則が、あたかも特別法に準ずる効力を持ち、その適用が有形力をもとに形作られる仕組みであると誤認したことで、ブラック校則が非難の対象となるのでしょう。
どんな理不尽なブラック校則であれ「従う必要はなく、それを強制されない自由を有する」と考えるだけでも生徒の心情にはゆとりは生まれるのではないかと考えます。
学校の秩序を維持する手段として校則は活用されますが、実際には罰則が設けられていないことから、その校則の遵守は生徒の任意性に委ねられる仕組みとなります。
なので、教職員による生徒に対する指導は警察官が行う職務質問と構造が似ています。
校則で禁止されているスマホを生徒が学校に持ち込んだ場合に教職員はスマホを「没収」します。
けども、この「没収」は「なんの権限」を「行使」した行為(法的根拠の不備)なのでしょう。
これら「没収」に関する法律の規定は存在しないのですから、法律の留保がない行為の正当性は担保されません。
もちろん、生徒が所有するスマホを任意に提出するように促すことは可能です。
ですが、憲法上の観点から所有権(資産)の保護は人権保障を踏まえて重要であり、占有権ですら他者に帰属させる場合に生じる手続きの不備を指摘されたのであれば領置を受けた人物に不利益が生じることは明白です。
この所有権に関する手続きは捜査機関ですら慎重に扱う内容です。
現場に臨場した警察官が被疑者の身体または所持品から差押さえることが可能性な「物」「場所」「内容」には法律の留保による厳格な規定が存在します。さらに、被疑者や参考人から任意に所持品の提出を受けたとしても署名や関連書類の作成は必須です。
もちろん、国家が捜査機関による所有権や占有権の侵害を制約する理由は、被疑事実としての証拠能力の健全性を確保する意味が大きいでしょう。
しかし、捜査機関による国民の抑圧を制限する効果も諸手続きの煩雑性から実現します。
ここで著者が指摘している内容は「それほどまでにデリケートな問題を教育現場は蔑ろにしている」ことです。
学校の教職員が生徒に対して行う「没収」行為は、法律の留保もなければ、憲法上の複雑な問題にもつながります。
ですから、学校の教職員が生徒のスマホを没収する場合には、任意の範囲でスマホを提出するように求めるしかありません。
それでも、従わない生徒に対してはお手上げです。生徒がスマホの所持を継続することは、令状がなければ侵されない権利なのですから。
学校の脆弱性は校則のみにならず、凡ゆる場面で見られます。
学校の校内で生徒間が殴り合いの喧嘩をしている場面において、教職員は法律に列挙される制圧や逮捕行為の一切が禁じられています。教職員に限らず司法警察員を除く一般人も同様です。
そのため、教職員が生徒間の喧嘩を仲裁する場合には一般人と変わらない対応が求められます。
まず、任意手段による仲裁です。
これは相手の間に割って入るとか、声を掛けるなどを意味します。
それでも喧嘩が収まらない場合には有形力を行使します。
つまり、私人による現行犯逮捕です。その場合には速やかに警察官に被疑者を引き渡す必要があります。されど、私人による現行犯逮捕は状況により喧嘩を仲裁した人物が相互暴行の被疑者となる可能性もあります。
著者は高校時代に喧嘩の仲裁をする教師が生徒を羽交い締めにして引き離す様子を目撃したことがあります。この行為は逮捕行為に該当しますが、もちろん、警察官に被疑者である生徒を学校側は引き渡してません。
学校の教育現場を覗くと、あたかも教職員が特別司法警察職員の地位を得たかのような行為が散見されます。
もちろん、教職員は生徒を監督する責任がありますから、その監督責任から違法性が阻却される事由は一般人に比べて広義でしょう。
そもそも、違法性が阻却される要件として考えられる正当行為を争う余地は、既存の法規が機能(刑法の適用)している(適用できる)状況において議論は成立しません。
そのため、教職員が生徒を監督する責任とは、警察官による職務質問と同等な程度で、その行為を学校教育法が規定する理由として教職員の身分を明確化すると共に責任の主体を明らかにする意義、さらに、指導行為が任意の範囲であれど第三者(街中で他人が子供を説教していたら違和感がありますが教師であれば自然な光景、これを明示する意味)と区別化する効果を期待されたニュアンスであると解されます。
これらから、学校は生徒に対して「校則」や「指導」を強制することはできないのです。
なので、悪さをした生徒を叱るために「生徒指導室に来なさい」と指示を出す行為、授業中騒ぐ生徒に「廊下に出ろ」と命じる行為、これらは生徒の「拒否します」の一言から教職員は強制することができません。
なぜ、国家は教職員に学校秩序の維持に欠かせない権限を付与しないのでしょうか。
その理由は、国家が唯一の暴力装置(暴力の独占)でなければならないからです。
国家は人々を統治するために暴力を用います。
「悪いことをしたら捕まる」この認識を持たせるためには、有言実行に伴う暴力が必要不可欠です。
この目的刑論的な考え方が国家の秩序を保つ基本となります。
そこで、暴力を行使する主体が混在している状況では国家の威厳は保てません。
そのため、国家は暴力を行使する機関や人物を限定しています。
ならば、学校の教職員は生徒に対する指導の一切を本人の任意性に委ねなければならないのでしょうか。
例えば、小学生は大人の指示を聞きません。
椅子に座り授業を聞くように小学3年生に指示を出したとして、その指導に反する児童の手を引っ張り椅子に着席させる行為は人権を侵害する程度に含まれるのでしょうか。
結論を述べると違法であるとは断言できません。
その理由は児童や生徒本人の判断能力が未熟な場合に監督者が本人の意思表示を無視(行為を代弁する)して、とある作為や不作為を強制することは認められているからです。
これは、正常な判断能力を有しない人物の行為(意思決定)が不利益を被る可能性を示唆して、それら行為に伴う意思表示を正常な能力を有する監督者に委ねることで、未成熟者を保護しようとする考えです。
では、高校1年生の生徒に対して手を無理やり引っ張り椅子に着席させる教職員の行為は正当化されるのでしょうか。
基本的に適正な行為であると認められることはありません。
ならば、これら「正常の判断能力を有する」人物の線引きは年齢から決定付けられるものなのでしょうか。
その答えに明確な基準はありません。
例えば、「見た目は子供、頭脳は大人」こんな小学1年児が存在するのであれば、この人物の行為は尊重されるべきです。
学校の教職員が児童や生徒に対する有形力の行使が不当な権利の侵害であると解される程度については、さらに研究を進める必要があります。
著者の見解では、警察官による補導と未成年者の保護活動が類似する判断基準であると推察されます。
実は警察官が行う少年の補導には強制力はありません。未成年者が深夜徘徊している場合に「警察署に同行を求める」その要求を明確に拒否するのであれば補導は打ち切らざるを得ません。
ですが、警察官による保護は有形力の行使が認められています。つまり、本人の意思に問わず強制的に警察署に連れて行くことができるのです。これが、未成年者である場合には適当な保護者が付近に見当たらない等の要件から必要な有形力の行使が可能になります。
ですが、少年であることを理由に全ての未成年者を保護をすることはできません。その保護ができない範囲を補う制度として任意活動たる補導があるのですが、保護はあくまで判断能力を欠く少年に限られます。
深夜徘徊する高校生を無理やりパトカーに乗せることは不当に権利を侵害する程度に含まれますが、付近に適当な保護者が見当たらない場合に迷い子たる小学生を本人の意思に反してパトカーに無理やり乗せる行為はその職務が正当化されます。
学校における教職員が児童や生徒に対して本人の意思に反して作為や不作為を強制する程度の判断は、これら警察官による保護の判例や事例から考慮されるべきと解されることが妥当であると論じます。
さらに、有形力について言及すると、この程度は「0」と「1」の択一ではなく各々の状況に応じて段階的に行使されます。
警察官の職務質問では一般的に有形力を行使することができないと認識されていますが、それは間違いです。
厳密に定義するのであれば「声をかけて相手を立ち止まらせる行為」も現に有形力を行使している状況です。
強制力を伴う行為は原則として裁判官が発する令状がなければ許容されません。
しかし、社会通念(社会秩序を維持するために必要とされる)の観点から比例原則の下で許容される必要最低限度の有形力の行使は許容されるべきとする学説が通例です。
例えば、職務質問における対象者の進路を妨害する程度は状況により警察官の違法性が言及されますが、それが令状請求の最中であれば通常の職務質問よりも広義(進路を妨害する行為をさらに増強して実施する等)に対象者に対する有形力の行使(強弱)が許容されます。
これら、段階的な有形力の行使から学校の教職員も同等であると推察することができます。
例えば、教師の指示に従わない小学1年生を担いで着席させる行為が適当であると過程すれば、それを小学5年生では手を引っ張り着席させる等自由に対する侵害の程度を留まらせる行為が有形力の強弱に当たります。
ですので、教職員が有形力を行使する場合には、その状況や児童や生徒の成熟度、侵害の程度、必要最低限度であること、これら多面的な要素から行為の正当性が吟味されます。
しかし、学校教育で問題となる教職員の行為とは、恐らく高等学校など精神が成熟(大人と同等の行為能力を期待できる年齢)した生徒に対する指導であるように思います。
学校の教職員には生徒を統率する強制力を伴う権限は与えられていないことから、その手段は任意による方法であり、学校の秩序を維持するために強制力を行使するのであれば一般人と同じく現行犯による逮捕行為または違法が阻却される事由(正当防衛や緊急避難等)が挙げられますが、教職員が特別に権限を付与されているのではないことを肝に銘じる必要があります。
ここで重要なのは、刑事上や民事上における責任の免除を学校が判断してはならない点です。つまりは、司法を積極的に介入させる、つまり、学校の自浄作用に委ねることなく生徒に接することが求められます。
その理由は、学校には自前の警察機構を設置していないからです。
暴れる生徒を押さえつけることは本来であれば逮捕行為に該当しますが、教職員の職務から正当行為として有形力の行使が認められる場合があります。
しかし、その判断は司法に委ねられていますので、教職員が行為の正当性を安易に推定し、さらに、権限を有する機関に引き継ぐことをせずに、学校のみで司法的作用(この行為は正当だろうと安易に考える)を担う(自己完結)ことは避けるべきです。
教職員による暴れる生徒を押さえつける行為が刑事上または民事上において責任が免除される判断は、具体的な争訟(その過程を得て)により個々の事例から定められます。
これは、正当防衛の適用事例を参考に考えるべきでしょう。
正当防衛による違法性阻却事由が認められるためには各事例の現場(正当防衛を行った場所で警察官が判断するのではなく)ではなく、その後の手続きにより司法が明らかにすることです。それまでは、正当防衛を主張する人物も相互暴行や傷害の被疑者として扱われます。
そのため、正当防衛の可否は各現場では判断しないのです。
これと同じく教育現場でも、生徒に対して許容される人権制約の程度は教職員が各教育現場で判断すべきものではありません。
これら踏まえると、学校に属する生徒が教職員の指示に従わない場合における措置として、学校がその秩序を維持するために、ある作為や不作為を生徒に強制することは事実的に難しい(事後的判断に委ねられるため)のです。
高等学校に校則が定める禁制品を生徒が校内に持ち込み、教職員が没収を求めても「任意ですよね。拒否します。」と、意思表示が明確な場合には学校側は応じるしかないのです。
そうなると、学校の秩序は崩壊しますので、運営自体が危うくなります。
これを防止する効果を期待して学校教育法では、退学、停学、訓告等の規定を設けているのです。
反抗的な態度から矯正が難しい生徒(教職員の指示に従わずお手上げ状態)に対して、学校が対抗できる措置は「退学や停学」です。
日本の各種制度趣旨を誠実に適用するのであれば、校則の遵守等の契約から入学を許されているのですから、その契約に伴う不履行に対する不利益は生徒に科せられます。
反抗的な態度から教職員の指導に従わない場合(契約に反した)は、退学や停学など機械的な措置から処分を下します。
もしも、その処分に従わない場合には不退去罪等を適用すれば解決するのです。
学校と呼ばれる特殊な環境が感覚を麻痺させていますが、大人の社会とシステムは変わりません。
これが本来の制度趣旨なのですが、実際に学校は安易に生徒を「退学や停学」にすることはできません。
その理由は、裁判で負けるからです。
著者の主観を交えるならば、唯一の対抗手段とも言える学校の懲戒権たる退学等の処分を科す行為も自由であるように思われるのですが、日本の司法はそれを良しとはしません。
学校が担う社会的な意義から、生徒を安易に退学にさせる社会を比較考慮した結果として、このように学校が行使できる権利に制限が科せられたのでしょう。学校の意義が教育であると社会が期待している背景から、これら目的を踏まえて学校秩序の維持が手段として劣後します。
なので、学校側は生徒を統率する上で極めて不利な均衡状態にあると言えます。
それでも、現在の学校秩序は比較的に安定している状態です。
それは何故か。
その理由は明確で人々の間で暗黙の了解が成されているからです。
日本の法律では売春が禁じられています。
なので、本来であれば凡ゆる大人のお店は取り締まりの対象になります。
けども、日本の警察や検察が大々的な摘発に乗り出すことはありません。
それは、その行為による社会的な意義が薄いこと、実行による社会的な不利益を被ること、つまり過度な制約を設けることで生じる弊害を踏まえると法律よりも慣習が優先される暗黙の了解から秩序が保たれます。
法律は万能であるかのように見えますが、社会の構造を紐解けば情勢に応じた機能を都度調整する不完全性を含むのです。
このような法律を超えた認識は「社会通念」と呼ばれる言葉で表現されます。
人権を制約する原理が公共の福祉に帰結するのであれば、人々の共通認識として成立する社会通念(公共の福祉≒社会通念)は、この原理を構成する大きな要因です。
教育現場においても、学校秩序の維持に欠かせない違法的境界線となる行為は黙認されます。
なので、昭和の時代では体罰が横行していました。
けども、令和と昭和の時代において刑法の大改正は行われておらず、法律を適当に解釈するのであれば、どの時代であっても体罰は許容されません。
しかし、昭和の時代では教職員が生徒を殴る蹴るは日常の光景です。その背景として、現在よりも生徒の反抗的な程度が大きいことから、学校の体裁を保つ行為として体罰等の有形力の行使が黙認(仕方ないと人々が考える)されていたのでしょう。
その均等が徐々に傾き生徒の人権保障が学校秩序の維持より優先される令和の背景には、過度な締め付けによる統率の必要性が薄れた理由が挙げられます。
そのため、生徒が優勢となる均衡を正常に戻す作用として教職員による差分を補填する行為が黙認されるのです(生徒を安易に退学や停学処分に科せない学校側の劣勢を補うために、秩序の維持に必要な代用としてその範囲を補填する懲戒権の行使は許容される)。
もしも、学校が優勢となる社会(退学等の処分が容易)であれば、過度な処分に対抗する手段として劣勢である生徒の違法行為は黙認されるでしょう。
例えば、退学処分を科された生徒が学校の登校を継続するなど、本来であれば建造物侵入罪や不退去罪として処罰される行為が世論により黙認されることで均衡(学校の意義である子供を教育する目的を達成する上で退学等の処分が容易であればその妨げとなるので、これを補うために生徒の権利を広義に認めようとする作用は許容される)を保とうとするのです。
他にも、学校による懲戒権の行使を広義に許容した結果として生徒の立場が劣勢となれば、凶暴化することによる自衛措置や人権保障等の法的措置から均衡を吊り合わせるために負荷を掛けるはずです。
これは、法律論争以前に自然の原理だと言えます。
そもそも、学校の維持運営に限らず、多様な場面で法律の規定を一言一句遵守していては社会生活が麻痺します。
以上から、学校の秩序を維持する手段として生徒に対する侵害が許容される限度とは、法律の一般的な解釈によらず、社会の情勢から周知された通念上に照らして、必要であると解される範囲に留まる行為であると説明できるのです。
上記図解における「程度の大小」を補完する限度が、学校制度を維持運営するために必要であると社会通念上許容される有形力の行使です。この「程度の大小」を補う行為は法律の適用を免れる効果は具備していませんが、それでも社会通念から許容される行為であるため黙認される場合が多いと言えます。
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