大学制度論

大学教育
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・大学とは

大学制度に関する問題提起

大学の制度論を論じる前に、大学の意義及び問題提起の発生理由を説明する必要があります。
本記事では、大学制度と学歴社会を同等の意味として捉え、あるべき日本の将来を現状の教育や学問、制度を振り返りながら読書に考える機械を促す手段としての役割を期待します。
大学制度を論じる上で問題提起される内容とは「大学とは必要なのかです。
もし大学が不要であるのならば、存在そのものが無用なヒエラルキーを生み出し、制度に縋る既得権益者を賄うために、多くの若者の時間とお金を搾取していることになります。
大学制度論は社会問題とも直結します。
同一賃同一労働が叫ばれている時代です。
大学制度が存在する限り「大卒」「高卒」このような学歴による賃金格差は払拭されません。
さらに、大学に通う時間や費用が社会活動(経済活動)を営む上で意義がある行為でなければ、そこに投資される学生の労力は社会全体ではマイナス(損失)になります。

大学制度を維持するために投入される人材や資金が機械費用(労働力の損失)の観点から考えると日本経済の損失になるのです。
さらに、損失は貧困を生み出します。賃金格差は貧困のはじまりです。
人々を豊かにするはずの学校、それが格差を助長しているのであれば笑えません。
そして、大学制度の恩恵とも言える「学歴」を不運にも享受されず、格差で悩まされている人々は現状のシステムに不満を抱くはずです。
人的資本が仕事能力と比例していないのですから。
しかも、その格差の根底が既得権益を守るための犠牲、社会的に意義のない犠牲ともなれば大学制度に懐疑的な姿勢を示すことにも納得です。
ですから、大学制度についての問題提起がなされるのです。

大学の意義及び役割

そもそも「大学」とは何だろうか?
大学制度を論じるにおいても、大学の役割を知る必要があります。
著者は大学の役割を学生に問いました。
「大学は何をするところ」
すると…
「勉強するところ」
ほとんどの学生がこのように返答しました。
驚きです。
大半の学生は「大学」が「何を」するべき機関なのかを理解せずに進学しているのです。
本来、大学は「研究」する機関として設立されました。
「研究」するための資金を研究者(教授)が得るために、学生に学問を指導して対価を得る、これが大学の意義です。
ですから、学生は「おまけ」なのです。
さらに、学生は研究者の元で自身が研究者又はそれに類する職種に就くために「学問」に取り組むことが求められていました。
ですが、現在の大学生は「勉強」をするために「大学」に通います。
彼らもそう自負しているのですから仕方ありません。
大学の本質は研究(学問)にあります。
そのための学生です。
さらに学生にも付加価値があります。
研究機関としての「大学」でしか身に付かない能力や技能を後の研究に活かす、だからこそ社会にとっても意義のある機関だったのです。
しかし、現在の日本では「学生中心」の大学に変貌を遂げてしまいました。
大学に通う学生は「おまけ」でなければなりません。
「学生中心」であることは良い風潮なのでは?
みんな、そのように言います。
「学生の学生による学生のための大学」
つまり、大学に通う資金がある上位階級者のみが大卒資格を得て高給取りになるシステムを肯定する表現が「学生中心」と言います。
冒頭で述べた通り、これでは無意味な格差を誘発するに過ぎません。
従来では、研究による成果物(社会利益)又は能力(人的資本)を期待され、そのポテンシャルや実績から賃金や身分にヒエラルキーを設ける社会制度でした。
ですが「勉強」をするために大学に通う大学生は社会的な価値を生み出しません。生み出すものは格差と既得権益のみです。
それでは、何故「勉強」は価値を生み出さないのでしょうか。
「勉強」は排他的だからです。
そこに、大学が「勉強」ではなく「学問」である所以があります。(以下に続く)

・学問とは

学校教育と呼ばれる主に義務教育期間では教職員が生徒に「勉強」を教えます。
学校教育制度については本稿では取り上げませんが、とりあえず、義務教育で子供たちは「勉強」をします。
そして、大学では「学問」に取り組みます。
「勉強」と「学問」これらの違いを考えたことはありますか?
それは「答え」があるかどうかです。 

1+1=2

これが勉強です。
そして「答え」があるのですから勉強は「排他的」です。「自己完結」ができます。「答え」が出ないのならば「解説(答え)」を見ることができます。ですから「答え」を導き出すプロセスに価値が生じることも、結論づけた解答が評価されることもありません。誰かが解いた問題なのですから。
そのため、社会において「勉強」とは無価値なのです。と、なれば「勉強」の目的は自己に帰属するものとなります。自己の「ため」のみ「勉強」は意義を見出せるのですから、研究機関たる「大学」は「学問」であるべきなのです。
「学生中心」と成り果てた大学は、自己の意思や感性(自己の目的を達成するためにする勉強)に由来する「勉強」と相性が良いのかもしれません。
本来の大学では「学問」を探求します。
「学問」には「答え」がありません。
さらに「問題」もありません。
だから「研究」が出来るのです。
「研究」に「答え」や「問題」があるのならば「やる」必要が失われるので「勉強」になります。
「学問」には「答え」が無いのですから、新たに想像された価値(問題や研究)には需要(利益)が発生します。
「学問」はその価値を見出す為に自らが翻弄するのですから「主役」は「学問」です。
「勉強」は、自己の育成(教育)を目的とした手段故に「主役」は「あなた」です。
さらに「学問」の「主役」は「あなた」に帰属しないことから「独立」した「自由」の存在であると考えます。

・大学は学生の教育機関なのか?

大学が「教育の場」であると主張する教授(教職員)がいます。
一理あります。
現在の大学は、研究機関としての地位を失い「学生中心」の義務教育を彷彿とさせる環境に降格しました。
ですから、学生を「教育する場」として考えている大学教授又は教職員は社会(学生)が求めている需要に応えているのかなと思います。
しかし、大学が取り組むべき「教育」とは義務教育での画一化(規格化)とは性質を変えなければなりません。
そもそも、大学は学問中心の研究機関です。
「研究」や「学問」と「仕事」又は「ビジネス」は距離を置くべきでしょう。
著者は大学「教育」の言葉自体に不満があるのですが、そこは触れないでおきます。
大学教育、言葉を「義務教育」や「高校教育」と使い分けているのですから、その意味は同義であってはなりません。
教育を実施するのであれば、大学独自のアプローチを模索するべきです。
そもそも、どのようにして大学教育の問題点が表面化したのでしょうか。

ここで「教育」とは何かをお浚いしましょう。
教育の目的は、国家を維持する構成員に相応しい人材を作り上げることです。
ですから、教育とは「国家にとって都合の良い人材」の育成を指します。

著者
著者

このような発言をすると「良い」「悪い」の争いに発展するので程々にしておきます

ですから、教育は「受動的」な「真面目」な人間を社会に送り出すことを基準に、生徒を指導しています。
先生の言う事に素直に従う子供が模範的であると。
このような「真面目」な人材が評価される社会なのですから、日本の教育制度は間違ってはいません。
そう、昔までは。
バブル崩壊までの官僚主義が蔓延した日本社会は同調圧力と権威主義により経済を維持していました。残業は美徳、上司の命令は絶対、気合い、努力、根性、このように。
もちろん、教育も当時の社会に適応するためのカリキュラムが制定されていました。
しかし、急激な技術の進歩、世論の変化、様々な要因から「能動的」に「価値を想像」できる人材が求められる時代に変わりつつあります。

されど、教育現場は「それ」に適応したカリキュラムを構築することはできません。
何故なら、教育を提供する「大人」が新時代に必要とされるノウハウを持ち合わせていないからです。自己が理解できない概念を他者に伝授することは出来ません。従来の価値観に基づき教育(画一化・規格化)されてきた「大人」には荷が重すぎます。
これらは、日本の教育制度(柔軟性)が著しく劣っているのではなく、時代の変化が早すぎたのです。
未だに従来の「教育」に囚われている学校制度(義務教育)、これらの汚名を返上することが可能な機関、それが大学だと考えます。
何故なら「大学」では「学問」に励むからです。
「大学」が普遍性を維持できる所以の一つです。
「勉強」は時代に囚われます。
広島に投下された原子力爆弾、アメリカが正当性を主張すれば「正しい行為」、過ちを認めれば「悪い行為」、このように「政治」や「国家の方針」によっても「勉強」は姿を変えます。
されど、学問は予め「答え」も「問題」もないのですから、凡ゆる事柄から独立した存在としての立場を保障されているのです。
その普遍性から「時代」に「追いつくこと」も「追い越されること」もありません。
「大学」が「学問」を通して育成する人材、その発端に「社会」の需要は何ら影響力を及ばしません。

著者
著者

文科省はデジタル化や交換留学の推進を押し付けてきますが..

大学教育と雇用、政策、これらは密接な関係があることから国家が介入する原理は理解できるのですが、そこが問題点でもあります。

時代の流れに遅れた学校教育、されど大学は教育現場を先んじる存在としての地位を得るべきです。
ですから「教育をするのであれば、大学でしか成し得ないアプローチを模索するべき」と、従来の義務教育の手腕とは相異なる教育の実施を大学機関(教授や教職員)には期待しています。
著者は「学問」と「教育」は相反する存在であると考えています。
しかし、大学が学生に提供するべき「学問」の過程に「教育」が位置するのであれば、偶然の一致として「学問」が「教育」の「手段」なり得る事実を容認せざるを得ないと思います。
学校教育では、一般的に「勉強」は「手段」です。「教育」の対象となる当事者(生徒)は「勉強」を「目的」として捉えている傾向が強いのですが、教育者は「勉強」を「手段」として活用します。
努力をさせる「手段」、成功経験を植え付ける「手段」、社会性を身に付けさせる「手段」、そのための「勉強」です。
極論、教育の目的を達成できるのであれば、手段は「ゲーム」でも構わないわけですが。
「手段」故に簡易である事が求められて「答え」がある画一化(規格化)された「勉強」がカリキュラムで用いられている(重宝されている)のかもしれません。
このように、教育の手段として「勉強」と同等に「学問」を位置付けるのであれば、自ずと「画一化(規格化)」されたカリキュラムが構築されることは明白であり「学問」の「自主性」や「独自性」は侵害されます。それでは、「学問」と「勉強」が異なる語源を有する意味を失います。
ですから、「学問」を尊ぶ大学で「教育」を学生に施す趣旨の主張には反対なのです。
しかし、「学問」の過程に「教育」が内在するのであれば、その主張は肯定されるべきです。ここで示す「教育」とは、義務教育を受け継ぐ(延長線)「教育」とは異にします。
前述したように「教育」とは国家にとって都合の良い人材を育成することが目的なのですが、技術の急速な発展により実利的(経済活動)に求められている人材と教育現場が育成する人材との乖離が拡大しています。
この乖離を補える存在、義務教育に変わり人材育成の役割を担える存在、それが大学機関です。
なぜ、大学では現在のニーズ(社会)に応じた「教育」を学生に提供できるのでしょうか。
それは「勉強」ではなく「学問」だからです。

これからの時代に求められる資質や能力とは?

主体的に課題を発見し、解決に導く力

「勉強」は生徒を「画一化(規格化)」する「手段」として用いられます。それが、以前までの雇用の市場(社会)で求められていたのですから、これらの教育指針は合理的です。
ですが、現在の社会で必要とされる人材は「ある意味において画一化されていない」独立した個体です。となると「学問」の独自性からなる性質が自然と社会に適した(求められている=主体的)人材へと学生を育成(教育)します※。

主体的とは「自分で考えて行動」できること。そのため、相手が求めている行為や結果に応じるために自分の行動を反映しなければならない。つまり、相手を理解しなければならず、学問の性質と似ている。主体的とは身勝手な振る舞いではない。相手の存在が優先される。
※学問の修得で「主体的」な性格の形成が促進される根拠はない。しかし、主体性を伸ばす環境が義務教育よりも整っていることは確か。そのため、義務教育で埋もれていた主体性のポテンシャルを大学教育で伸ばすことは可能である。もとから存在する「主体性」(大学教育が育むのではなく)のポテンシャルを発揮(掘り起こす)できる環境が大学。

現在の社会(必要とされる)の構造、それと学問で用いられる思考法には共通点あります。
ですから「学問」は「独自性」を維持しながらも「教育」の役割を果たせるのです。
「勉強」の主役は「あなた」です。
しかし「学問」の主役は「学問」です。
そして「社会」の主役は「社会」です。
「学問」と「社会」どちらも「クライアント」は「自己」ではありません。
ですから「主役」たる対象に「自己の価値」を与える意味では根本的な構造は同じだと言えます。

学校教育では「自分のためにやる勉強」を習います。
しかし、大学では「相手のためにやる学問」を尊ばなければなりません。
相手とは「学問」そのものを指します。「学問」は目的故に手段は問いません。
例えば、自己が研究する課題の成果よりも、他の研究者が導き出した結果が優れているとしたら「自己の研究」に費やした「努力」や「労力」を犠牲にしたとしても、優れた成果を元に新たな研究や課題に取り組むはずです。誰かが「解決」した問題を再び解きなおす作業は意味を成しませんから。
もちろん、学問や研究に取り組む過程で生じた副産的な途中経過が新たな発見や成果に繋がる可能性は排斥できません。
日常生活や仕事における、失敗の経験から学ぶ教訓と原理は同じです。
途中経過で生じた「なぜ、どうして」を探究することで、学問や研究に付加価値を与えられるのです。
日本の企業は成果を重要視するあまり研究や実験の過程、副産的な作用や効果による利益を軽視しています。その結果、成果のみを要求される構造に不満を抱いた人々が海外に流出しているのです。
どちらにせよ(過程を重視する、重視しない)、学問や研究における途中経過は「自己を育む道具」ではなく、その成果や発見、利益に還元される主体として機能することには変わりません。
そのため、自己の行為や行動(努力や労力)は「手段」となり、「学問」や「研究」を昇華させる触媒でしかないのです。
学問の「主役」は「自己」ではない。

「勉強」では「努力」や「労力」のプロセスが重要(勉強は手段)であるため、学問に伴うような簡略化はできません。
勉強が「人間」のために「ある」のであれば「人間」は「学問」のために存在しています。
ですが、「学問」に尽くす「人間」の構図があるからこそ、発展や進化を遂げることが出来るのです。「人間(生徒)中心」の「勉強」よりも「学問」の傀儡と化した在り方が、結果として「人間」に利益を齎すことは間違いないでしょう。
「社会」の構図も「自己」が提供できる「能力」や「技能」を「答え」がない「器」(社会)に注ぐことで需要(利益)が満たされます。
自己のための「勉強」では「器」から与えられた「仕事」を熟すだけの人生となるでしょう。
自己から独立した視点を持つことで、他者が求める「もの」である「サービスや仕事」を先取り(予想)して結果的に需要を生み出します。そして、新たな需要を作り出す基盤には「主体性」が不可欠です。思考は束縛されない自由が育みます。「器」から与えられた「仕事」を熟すだけ(義務教育のような画一化されたシステム)の生き方では、思考は停滞するでしょう。なぜなら、「与えられる」受動的な作用から「与える」必要性が奪われるからです。
大昔の人々は「食糧を得る」(与える)ために狩りをしていました。しかし、食糧を「得る」ことから「得られる(肉はスーパーマーケットで購入できますよね)」(与えられる)ことに変化したことで、限られた人々を除いて我々は「得る」ための「狩り」を忘れました。もしも、現在の世界がとある事情から再び「得る」ための「狩り」をしなければならないと変化したら焦りますよね。まさに、この例えは日本の教育現場と同じ現象なのです。
「与えられる不自由」「与える自由」と呼称しましょう。
基本的に思考は自由から生まれます。
食糧が与えられる状態であれば狩りを学ぶ必要性はありません。さらに、与えられる状態とは与える相手が存在することが前提であり、自然の摂理として与える相手が与えられる立場の者をコントロール若しくは掌握しています。
生まれたばかりの赤ん坊は母親の乳を飲みます。赤ん坊が母親に乳を「与える」ことはありません。
ですから、常に与えられる側は自己の上位存在に生殺与奪を委ねているのです。これが、「与えられる不自由」です。
これらとは対極に「与える自由」とは、自己が束縛されない地位を確立して他者を掌握することで得られます。母親が赤ん坊の面倒を見る原理と同じです。そして、「与える」存在は自己の地位を保持する為に「与えられる存在」よりも優れている必要があります。でなければ、赤ん坊が母親の面倒を見るというハチャメチャな逆転劇が巻き起こるでしょう。与える者は優位性を保持するため「思考」をします。何も思考でなくとも、狩りであれば技術、生命であれば強さ、その分野において優位性を保つ手段は変わります。
その優位性が、現在の社会では「思考」(与える自由)なのです。
これら、思考は優位性たる自然摂理の原則として束縛(生殺与奪を掌握される状態)を嫌います。優位性は自由を制限されたのであればその効力を失いますから(赤ん坊が母親の面倒を見る逆転劇のように)。
そのため、自由と近似する「主体性」や「リーダーシップ」が「与える自由」を兼ねるのだと思います。故に「自由」な「学問」が「主体性」強いては「思考」を活性化する作用を有する可能性があるのです。
「大学」はもとより、国家の礎を築く人材の育成を担う機関です。
そのような、指導的な立場の人材(リーダーシップ・主体性)の育成は「教育」ではなく「学問」(自由)を通じて身に付くように思えます。
肉体労働や単純労働(勉強と同じく受動的な仕事)の効率化を促進するための「教育」は、大学の意義を侵害し「学問」による恩恵を得る機械を奪うものです。 
社会における下部構想を育成する機関が義務教育だとすると、上部構造を作り出す役割は大学にあります。それぞれの構造を組み上げる手段が「勉強」であり「学問」です。しかし、これらの手段(勉強と学問の混成化)が機能不全を誘発しているのが日本の現状です。
社会の需要たる「器」を満たす人材は「学問」の「エゴ」を尊重した先に育成されるべき到達点です。
「需要」たる「器」は、スポットされる時代によって求められる大きさが異なります。
昭和の時代、世間が抱く大学生のイメージは「変人」でした。言葉を変えるのならば「社会不適合者」です。ですから「反社会的」な人材を育成(もはや育成ではない)する機関が大学だったわけですが、現在の社会では「変人」たる大学生に需要が生まれています。
されど、過去に「変人」と揶揄されてきた人々が求められている時代なのですが、大学の進学率を無頓着に高めようとする世論と政治の後押しもあり「教育」の場へと姿を変えました。これでは、大学を必要とする(進学率)需要は増加する一方で、社会活動に求められる人材を確保する意味においては逆効果、まさしく矛盾に陥っています。
大学での「教育」は「学問」を通じて培われるべきです。
「教育の場」を意識した「学問」の啓蒙では主体性を排した「教育」を助長します。
ですから、「教育」を意識しない学問の促進(取り組み)が、時代に適した「教育」を施す最良のアプローチだと考えます。

「自由」が「思考」を生み出すのか、「思考」が「自由」を生み出すのか、両者の立ち位置により記事の内容が大きく変化します。自然の法則では優位性は予め定められている故に「思考」(それぞれの優位性)が「自由」(主体性などの特徴)を確保します。赤ん坊は生まれた瞬間から母親に劣る存在として地位を確立するように。とすると、学問などの後天的な作用が個々の人物の特徴に影響を及ぼす可能性は極めて低いと言えます。「思考」など「優位性」の要素が「自由」たる「個々の特徴(主体性)」を構成するのであれば大学教育は、その「優位性」を養うのではなく「発見」する作用と定義した方が正しいのかもしれません。しかし、「自由」の状態が適者生存の原理から「思考」を自己に生成する余地も残されています。「思考」か「自由」、どちらが先に生じるのか不思議です。
持論としてもう一つ考えられる説は、そもそも、「主体性」や「積極性」などの概念は存在しないとする考え方です。私を自己評価すると大学時代では「主体性」や「積極性」に富んだ人物でした。されど、就職してからは「陰気」で「消極的・受動的」な人物として評価されていたでしょう。もしも、大学の学問が万能であれば就職後も「主体的」で「積極的」な性格として職場で明るく振舞えていたと思います。何が言いたいかというと、人間は自分が得意とする「分野」のみで「主体性」や「積極性」を発揮する特性があるのだと思います。私は大学での学問は得意でしたから自然とその分野が優位性として確立、対極に就職後は官僚社会に馴染めないことで「与えられる」立場に追いやられたように感じています。学校では大人しい陰キャラがオタク分野のゲームやアニメの話題のときのみ一目を置かれる例えが分かりやすいでしょう。ですから、大学で養われる「主体性」や「積極性」は、あくまで、当該する範囲における分野の「優位性」のみに発揮できると言えます。これら「優位性」が「学問」と重なる領域が広がりつつある現状を踏まえて「大学」の「学問」(大学教育)が再び評価されて「主体性」や「積極性」が養われると誇張されているのだと推察しています。
前述では「現在の人間社会における優位性は思考」と説明していますが、「主体性」や「積極性」を誘発する「優位性」は自己が置かれる環境により分野が変動します。そのため、「主体性」や「積極性」が生まれる起源は「自己が得意とする分野と環境が求める分野が重なる」状態であるとする仮説が濃厚です。
学問と社会における優位性は類似する傾向があります

経済(社会)活動と学問は似ています。
勉強は排他的ですが、学問は共依存の関係にあります。自己に「できること」、学問(どのように発展させるか)が「求めていること」、互いのレスポンスを伺いながら成長することが大切です。そのため「相手」に自己の「価値」を能動的に提示する必要性が生まれますので、経済活動でも客観的に役割(立ち回り)を自覚して利益を生み出す人材として活躍できるのです。
著者が「学問」の「自主性」を重んじる理由は、「やらせる」のでは「勉強」になるからです。「勉強」は排他的です。それでは「社会」で「孤立」した「存在」となります。

・大学制度の問題点

大学教育の問題提起が活発化される現象は冒頭の記事で触れました。(こちら)
では、具体的に日本の大学制度の何が問題なのでしょうか?
主な課題は「大学教育の質の低下」です。
実感が湧かない読書も多いと思います。
文科省の統計(大学経営政策研究センター調査統計)によると、大学生の平均修学時間が4~6時となっています。

読者
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これって少ないの?

大学設置基準では8時間の学修が推奨されていますので、基準の約半分です。
大学設置基準とは「学校教育法第三条、第八条、第六十三条及び第八十八条の規定に基き、大学設置基準」を定めた法律です。

ちなみに、諸外国との対比でも日本の大学生は学修を怠っています。

著者は「学修時間が多ければ良いってもんじゃねーだろ」と思うのですが、まあ、学修時間が増えれば大学教育は多少はマシになるので触れないでおきましょう。

勉強しないことが問題視される理由

大学生の学修時間が低下すると、大学の質が下がります。
大学は「教育機関」ではなく「研究機関」です。
そのため「大学の質」が下がることは、日本の凡ゆる技術の衰退を意味します。
大学全入時代と呼ばれる現状では、大学(教授や研究者)に資金を落とす学生は次々に集まってきます。ですから、研究者は資金には困らないでしょう。しかし、次の世代を担う若者がいなければ、仙台が積み上げてきた研究も潰えてしまいます。後継者が現れても「馬鹿」なら意味はありません。それが「問題」なのです。
さらに、大学の「専門学校化」と「就職支援の場(職業・就職訓練校)」と化した環境では「学問」を邪険にした「勉強」が行われます。
「勉強」と「学問」では性質が大きく異なりますので、大学が想定する人材の育成や研究機関としての役割を維持することが困難になります。
ですから「大学」は「学問」に専念できる場所でなければならないのです。
また、学生は「就職」を視野に入れて「大学」に入学することも問題です。そして、大抵の学生は気が付きます。大学で得る知識や技能、それに就職活動、これらに関連性がないことを。

問題点の原因

大学制度の課題は「馬鹿」でも「大卒資格」が得られることです。
大学全入時代が到来するのですから当然ですよね。
定員割れしている大学では願書を提出すれば入学できます。
そうなると、日本全体で入試に向けた勉強を怠るようになります。
また、願書を提出するだけで大学に入学できる生徒は、経済的に余裕がある家庭の子供のみです。
ですから「誰でも」ではなく「金があれば」が正解です。となると、進学を希望しても経済的に苦しい生徒は大学には入れません。大学制度の質を担保するためには「金持ちの馬鹿」よりも「貧乏人の秀才」を入学させることに意味があるように思えるのですが、残念ながら、どうしようもありません。
このようにして、本来の大学に期待される役割を排斥するかのように、無用なヒエラルキーが下部構想を蝕むシステムが完成しました。

・教育後進国日本

日本が教育後進国と言われる理由の一つに進学率があります。
現在の大学進学率は50%を超え、高校卒業後は、二人に一人が大学に入学する計算になります。
しかし、諸外国と比べると大学進学率は高いとは言えません。

引用:文科省(2010統計)※現在の進学率は約六割

これらの統計結果は、教育に投じる費用との相関関係でもありますので、日本が教育に投資する費用が如何に低いか分かります。

引用:文科省

ちなみに、諸外国と比較しても公費負担額(国が投じる教育費)が少ないことから、日本の教育制度に問題があることは明白です。
さらに、世界の大学と比較して、入学年齢が低いことから、誰でも学べる環境とは言えないでしょう。そのため(入学年齢の統一性から)、自己のキャリア形成を目的した職業(就職)訓練校としての役割を築いています。

引用: https://www.oecd-ilibrary.org/docserver/22bcdfd2-en.pdf?expires=1643082361&id=id&accname=guest&checksum=BE848DE5EE6C83992A770F97A0120BB5
読者
読者

ところで、世の中で最も優れている投資ってご存知ですか?

それは「教育費」です。
どんな投資や資産運用よりも、「利回り」が最も優れています。
人的資本(教育費を多く投じた)が投じられた人材は就業機会が豊富ですから、高学歴の両親は子供に費用を多く支払うのです。
現在の日本社会は、学歴を指標とする人材の評価基準(学歴別の求人)と、既存の雇用構造(官僚主義や年功序列)を維持する目的を、人的資本の投入額(高学歴=優秀)に基づき、これらの制度は稼働しています。
ですから、人的資本を多く投じると、莫大な「リターン」を期待できます。

読者
読者

高学歴で高収入の世帯の子供に人的資本が多く投じられる現状は、既存の制度を両親が熟知しているからだと言えるのです。

教育費による「リターン」は個人のみではありません。
社会(経済)全体でも言えます。
教育費を多く賭ける国は成長します。
現に、中国や韓国、アメリカは国家が莫大な教育費を若者に投じています。
ならば、日本でも教育費を多く投じ、大学進学率を上げることが正解なのでしょうか?

・進学率は上げるべき?下げるべき?

著者
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大学進学率を上昇させることによるメリットとデメリットを紹介します。

進学率を上げることによるメリットとデメリット

進学率を増加させることで国民の知能が向上します。
これはメリットと言えます。
学問や研究(高等教育)に触れる機会が増えるのですから、それぞれの分野で活躍する人材(スペシャリスト)を育成できるのです。
さらに、教育の機会の均一化を図ることで、大学に通いたい生徒(経済面から進学を諦めていた生徒)の権利を確保することが可能になります。
現状の大学教育では「お金」がある「生徒」のみが「誰でも」進学できる制度です。
しかし「お金」の「ありなし」に関わらず「誰でも」進学できる制度であれば、格差の是正に期待が高まります。

ですから、ここで示す進学率の増加(メリット)とは「公費負担額に基づきどれだけ進学率を上げるのか」以上の仮説が前提となります。
公費負担額が極めて少ない日本の大学教育で進学率を高める理由は、政府による研究費用の支出を抑えることが目的だと予想されます。国家の代わりに学生が技術発展のための資金を大学に提供するのですから。
デメリットは、大学の進学率を上げることで「馬鹿」も大卒の資格を取得できるようになることです。
「学校」の「授業」を想像してください。
「足の引っ張り合い」ですよね?
新聞記事かどこかで「足算の問題を掛け算で問いたら不正解になった」そんな話題を耳に挟みました。
「学校」の「勉強」では「能力」の「平均化」が行われます。
となると「大学」で学ぶべき「学問」の領域を「勉強」が侵害することにも繋がります。
私も学生時代に似たような経験をしました。講義を熱心に受講しない学生のために、再テストを実施したり、提出物の催促で一コマ潰れたり、これらの解説や説諭に費やされた時間や労力が正に「平均化」です。仮に、彼らが在籍しなければ、無駄な時間や労力を消費せずに済みます。このような機会費用の損失が重なると大きな問題に繋がるのです。
その問題とは「平均化」です
「大学」に進学する事が「当たり前」になると「学問」は「勉強」に変わります。
何故なら、義務教育で「勉強」を中心に学んできた生徒が「学問」に対応することは困難だからです。
また「みんな」が大学に進学するに伴い学生の「将来」を学校が「カリキュラム」する必要性も生まれます。
以前までは、学生の将来を大学側がプロデュースするまでの責任を負うことはありませんでした。大学生は、自己が取り組む学問や研究に類する就労を選択できましたし、何より「みんな」とは異なる「進学」を希望するような人材は優秀ですので「学問」と対峙する姿勢同様に能動的な生き方ができました。
「大学」に進学することが「普通」でない時代において、大学生は「変人」です。そして「普通」でないことをする(できる)人間は「努力」の他に「才能」を持ち合わせている傾向があります。「勉強」は「努力」のための手段ですが、「学問」は「努力」とは無縁な関係です。時には「才能」がものを言います。そして、何らかの「才能」を持った学生は社会でも活躍(生きていける)します。
このような、特殊な人材からなる大学機関(研究機関)だからこそ、学問や研究に専念することが出来たのだと思います。
しかし「みんな」が「大学」に通う時代においては、学生に対し就労に関する補助を実施しなければ、膨大な人的資源を捌くことはできません。
システムや制度は「平均的」な人間が活用できなければ、意味を成さないのですから、大学制度を「みんな」が利用するためには「就労」に関する訓練や指導が必須となります。ともなれば「学問」に投じるべき「リソース」が「平均化」のための「是正処置」に消費されることになります。
そうなると、大学は「専門学校」や「就職支援の場」としての特色が強まるのです。
これが、進学率を上げることによるデメリットです。

進学率を下げることによるメリットとデメリット

進学率を下げることによるメリットは「大学の質」を向上させることにあります。
進学率を低下させる方法は主に三つです。
まず、大学の数を減らす、入試の難易度を上げる、どちらも結局は変わりません。
大学の数を削減すると、進学希望者が入学定員(募集人数)総数を上回るので、必然的に試験の難易度は跳ね上がります。倍率が高まるので当然ですよね。
三つ目は、社会情勢の変化によって大学の意義(信用)が喪失すると進学率は下がります。
現在の学生が大学に進学している理由は「研究や学問に取り組みたい」のではなく「就職」のためです。となると、新卒採用制度の崩壊や大卒求人に差別化(賃金の差異)が期待できないのであれば、大学に通う必要性は失われます。ですから、社会の評価が現在の大学権威主義構造を作り出しているのです。
大学(大卒)は、不確定要素に基づく「期待」や「信用」により「価値」が承認されている構造は「貨幣」のようにも思えます。
「貨幣」は「価値」を「みんな」が「信じる」ことで成り立っています。
我々は「福沢諭吉」と呼ばれる「オッサン」の「チェキ」を大事にお財布に入れています。美少女又は美男子の「チェキ」ならまだしも「オッサン」の顔写真です。普通なら「オッサン」の顔写真は直ぐに捨てます。ですが「オッサン」の顔写真に「みんな」が「価値」を見出しているのですから、その「オッサン」の「顔写真」には「一万円」の価値があるのです。
大学制度も同じです。社会が、大卒に意味を見出している故に大学の必要性は担保されます。
進学率が低下する又はさせる方法は以上です。
主に、大学の数を減らす、入試の難易度を上げる、これら二つの取り組みから大学進学の難易度を上げることで、大学教育の「質」を確保することが可能になります。
となると、大学入試を勝ち上がる優秀な生徒のみが進学できるわけですから、大学の尊厳は守られます。

著者
著者

「勉強」(大学入試)が「得意」な生徒が「優秀」又は「学問」に向いているとは限りません。この問題はまた今度。

進学率を下げることによるデメリットは、子供たちの勉強の機会を奪うことです。
さらに、進学率を下げると「入試の難易度」が上昇します。「大学入試」は「勉強」ですので「勉強」が「得意」な生徒のみが「進学」できます。

読者
読者

なにが問題なの?勉強が得意な生徒が進学した方が大学の質が保てるのでは?

その通りです。
「勉強」が「得意」な生徒は大学で貢献します。ですから、期待値が高いです。
しかし「勉強」とは経験の積み重ね、勉学に勤しめる環境が整備された家庭の子供は「成績」が良好です。すると「環境」を「金」で用意(塾など)された子供が進学できます。
結局は「金」です。
現在の大学制度は全入時代と揶揄されています。これは、進学率が高い事実とは裏腹に「金」があれば「誰でも」進学が可能な仕組みを指します。
これでは(進学率を下げる)、現状と何ら変わりません。
進学率を下げる問題は他にも。
進学率を下げると入試の難易度が上がります。すると「勉強」が得意な学生のみが大学に入学できます。
「勉強」が得意な生徒は「大学」(学問)に適しているのか論争の開始です。
「学問」は「才能」つまり生得的な要素による領域が大きいように感じられます。
そのため「努力」を主体とした「勉強」とは相性が悪いのです。 
「勉強」が出来るからと言って「学問」が得意とは限りません。
もちろん、学部にもよります。
理系の学部は数学や化学の習得を前提とした講義などもありますから。
私は学生時代「法学部」でした。
大学での成績は自慢する程ではありませんが「良かった」です。
しかし、小中高の「勉強」はつまらないからボイコットしてました。
ですから「何一つ」「勉強」はしていません。
高校の成績は「1」か「2」しかなかったような…。
ですが「皆勤賞」だったので卒業はできました。
成績不振で遅刻欠席なしの皆勤賞、そんな中学、高校時代です。
ですが、大学では学問(法学)が得意でした。
勉強を真面目に励んできた学生よりも。
自分が「学問的」な思考に優れている(才能)のだと自負した瞬間です。
このように「勉強」が得意な学生が「学問」でポテンシャルを発揮できるかどうかは一概には判断できません。
高校までの成績が不振でも、大学で能力を発揮する学生は存在するのです。
「勉強」だけで判断される「大学入試」では、そのような学生の学修機会を奪うことにも繋がります。
義務教育までの環境が「幅広い」フィードで「得意」な分野に関心を持つ(探す)機会だとしたら、大学は自己の「得意」を「学問」や「研究」を通して理解を深める機関だと言えます。
しかし、高校の「普通教育(国数理社等の勉強)」を踏襲した「大学受験」では、学力と偏差値(国数理社等の勉強)を基準に「入学者」を間引きます。
「学力」や「偏差値」が万能な存在として信頼する人々が多い社会ですから、大学入試の改革は厳しいでしょう。
ですから、進学率を下げることには反対です、と言いたいところなのですが「勉強」が「得意」な生徒を優先して入学させる制度には、実は合理性があります。

「勉強」をしてきた学生は「努力」ができますので「学問」にも精を出します。
しかし「努力」を怠ってきた学生は、そもそも「学問」を「やる」確率が低いのです。
そうなると「学問」の「才能」がある優秀の人材であっても「やらなければ」その資質は開花しません。
「努力」が出来る学生は「とりあえず」学問に取り組みます
向き不向きは二の次です。
「とりあえず」「やる」のですから「才能」が発現する確率は生まれます。
勉強が得意な生徒が学問に通ずる素質があるかどうかの関連性は極めて薄い故に、大学で活躍(適正がある)するかの期待値は「勉強が苦手な生徒」と「勉強が得意な生徒」どちらも遜色ないのですが、「勉強」により「努力」が慣習化した「成績優秀」の生徒が「学問」に励む「確率」が高いことは明白です。となると「確率」がある生徒は「学問」で成果を残す可能性が見込まれます。
反対に「勉強が苦手な生徒」は「誰でも」できる「勉強」をしないのですから「当たり前」の「作業」をしない人物だと評価されます。故に「勉強が苦手な生徒」は「学問」に貢献又は成果を残すことが確率的に低いと言えるのです。

ポテンシャルを発揮できる確率について
仕事も同じ原理です。
優秀な人物かどうかは重要ではありません。「やる」かどうかの懸念材料を払拭する見極めとして「勉強」が存在します。
仕事で活躍を期待できる人物を3人採用すると仮定します。
勉強が得意な3人勉強が苦手な3人、どちらを選びますか?
もしも、勉強が苦手な集団に優秀な人物(ポテンシャルを見込める)が混じっていても、与えられた仕事を安定的に熟すであろう可能性が高い勉強が得意な3人を採用します。
これが、社会の原理です。

【格差社会も原理は同じ】
努力が必ず報われるとは言えない現代社会、下層家庭の保護者や子供は「学力」と「仕事」(勉強は役に立たない)の相関関係を否定することで「勉強」から逃避します。そのため、不確実な「学力」や「努力」による「成果」(報われると信じて)を信頼する上層家庭の子供は「とりあえず」偏差値を高めるために勉強するのですから、このような人々が社会的なリソースを獲得する可能性が高いことは明白です。[参考:内田樹 下流志向]

進学率を低下させると「勉強」が「得意」な「生徒」のみが大学に進学できます。
大学の質を保つためには「勉強」が「得意」な生徒を集めることが得策なのですが、それではやはり「経済的」に豊かな生徒のみが大学教育の穏健を享受することになるのです。
「大学」の「質」を保ちながらも「経済的」な格差を解消する方法はあるのでしょうか。
これらについて「メリット」や「デメリット」を論じることは難しいでしょう。
大学進学率論争は、要するに「少数精鋭にするか」「物量作戦でいくか」この二択に回帰します。
しかし、それぞれに問題点や課題はありますが。

著者の持論

【学歴社会を加速させるために大学を減らすべきである
学歴社会が進むと格差が広がります。しかし、その格差に合理性があるならば人々は迎合するでしょう。大学教育に社会が求めるであろう人材が育成されるのであれば、人々は教育に資金を投じます。
さらに、大学の希少性を高めると、学歴を有する(大卒)一部の人々と、他の多数派たる人々との間に経済的な格差が生まれますが、多数派が学歴の恩恵を享受しないことで格差の問題が表面化することはありません。学歴社会が加速した韓国では、大学、それに就職、どれも命を懸けています。就職、主に公務員を例に挙げても大卒採用は著しい倍率です。ですから、韓国の学生は死ぬ気で勉強に取り組むのです。これが正しいのかと尋ねられたら反応に困りますが…やはり、教育に尽力する国は成長しますよね。 大学を減らすとは正反対に子供に費やす教育期間を増やすことにも賛成です。大学を義務教育としてカリキュラムに含むのです。もちろん、大学の学問や研究は衰退しますが、その役割を更なる高等教育機関(大学院等)が担うのであれば問題はありません。

・学歴社会と進学率

世の中は不思議です。
学歴社会に反対するも、進学率を高めようと奔走する人々が存在します。
そもそも「学歴社会」とは学歴に依存した社会形態を意味します。ですから、既存の制度である大学の意義を承認しているからこそ進学の必要性を主張し、それを実現しようとしている矛盾になぜ気づかないのでしょうか。
学歴社会を批判するのであれば、社会が依存する大学の信用構造に疑問を呈し、その悪循環を流布すべきです。
現在の大学は、研究機関ではなく教育機関としての特色が強いです。
そうすると、大学制度の役割や必要性は、社会の需要に応じる形で変動します。
ですから、学歴社会に対する問題提起に進学率を絡めるのでは御門違いです。進学率を増加させれば、より学歴による雇用のフィルタリング(需要)は増します。
大学に需要があるから進学するのですから。その需要を高める(進学率を高める)ことは、既存の構造を肯定又は依存を助長する主張です。
学歴社会の弊害は、需要と言う名の信用(大卒に価値を見出している企業)が無くならない限りは上部構造に君臨し続けるでしょう。
学歴社会を体系化しているのは、大学ではなく社会なのですから。

・学歴社会の撤廃で格差は撤廃される

学歴社会とは学歴で評価される世の中を指します。高校を卒業した高卒、大学を卒業した大卒、卒業した大学による待遇の違いも存在します。
高卒者は大卒者に比べて雇用の条件が悪いことから、学歴の概念を撤廃させれば経済活動において平等が実現されるとする主張も一理ありますよね。
学歴による待遇の差別化は一種のポテンシャルを見込んだものでした。
大卒者は、自身が取り組んできた学問や研究、それらを通じて培った能力、その経験から「将来」活躍(利益を生む)するだろうとの期待(人的資本)から、初任給をはじめとする各種手当や待遇が高卒者に比べて恵まれているです。
ですが、大学で得られる(学ぶもの)ものが「勉強」である以上、社会が求める水準に満たない未熟な人材が大卒者として世に放たれることで、学歴による不当な格差があることも事実です。
となると、大学を卒業したにも関わらず「高卒程度」の知識や能力しか持ち合わせていない大卒者が「ウジャウジャ」と存在するのですが、これら「ウジャウジャ」と「高卒者」に待遇差を定める社会のシステムには懐疑的な気持ちになります。
このような「ウジャウジャ」を採用したくない企業は「GPA」(大学の成績)を考慮した選考を実施するのですが、ほとんどの企業や会社は学生の採用に大学の成績を評価しない方針が強いように感じられます。

そもそも、大卒の採用で企業が「GPA」を評価しない傾向があることも面白い現象です。
企業が大学生の成績を参考にしない(若しくは消極的)理由は①大学により成績の基準が異なる②学問や研究と仕事能力の相関関係が薄い③人物(面接)重視、と、こんなところ。

世間
世間

学問や研究に向いている人材が仕事で活躍できるかどうかは別問題、それなら人物(面接)試験で性格や適性を見極めたほうがよくね?

大学から「学問」と「研究」を奪ったのですから、もはや「大卒者採用」の意味がないところが面白い(皮肉)です。

それなら、高卒採用でもよくね?
高卒と大卒の待遇差を設ける理由とは?

このような不満が生まれても仕方がありませんね。

著者
著者

社会は大学を「義務教育」の延長線として認識しているのでしょう。

そうでしょうね。
大学の「成績」は評価しないけど「学歴」は評価するのですから。
どこの大学を卒業したのか?最終学歴は?これらを重要視している就活市場は「努力」できる学生を求めているのです。
何度も説明しているように「勉強」は「努力」を促すための「手段」です。そのため「努力」による「成果」としての「学歴」が指標に選ばれています。
大学の銘柄とは「努力」の「証」として「購入」できる「資格」です。この「資格」を就活市場では評価しているのですから、大学は「勉強」を主軸とした「義務教育」の「延長線」と言えます。

それなら、大学の成績を努力の証明としたら?

されど「努力」を証明する「手段」に大学の「GPA」が選ばれず「義務教育」の「勉強」が評価の対象として承認されている疑問が生まれます。
これは、大学によって成績の基準が異なることに理由がありそうです。
大学入試は「センター試験」など、習得する(努力する)教科に規則性や統一性が担保されています。ですから、努力を測る指標として「勉強」が候補に挙げられているのです。
さらに、学部による専門性の違いから努力を比較できないことも原因の一つです。
このような事実から、就活市場(社会)で評価されるであろう自身のステータスは「高校」までの「勉強」(努力)です。
社会では「努力」ができる人材が求められています。
「大学」の存在が入試と言う形態で「高校生」に「努力」を促しているのですから、大学教育そのものに意義がなくとも、社会からは(間接的に)必要とされる機関なのではないのでしょうか。
しかし「金」さえ払えば大学に入れる「全入時代」の到来が大学(大卒)神話を崩壊へと追い込みます。

余談が長くなりました。
あ、これ余談ですよ。
学歴社会が崩壊する要因は「社会」による「大学」の「信用」が失われることにありますから。
みんなが「大学って意味なくね?」って思えば学歴社会をはじめとした大卒高卒区分は消滅するでしょう。
紙幣と同じです。
我々は福沢諭吉のチェキを…デジャブですね。
とりあえず、以上のように「大卒」が「意味」あるものとして「評価」される「世の中」が終焉を迎えようとしています。
もしも「大学」の「信用」が地に落ち、「大卒資格」の価値が失われたのであれば、それは学歴社会の瓦解を意味します。
このような社会で、本当に格差は解消されるのでしょうか?
まず、学生が大学に入らなくなるので「研究」するための「資金」が不足します。
大学も潰れます。
進学希望者が大学の定員数を上回るまで大学機関が衰退したのであれば「研究機関」としての権威は回復します。
しかし、少数精鋭の大学教育では「学問の質」は保てますが「金」はありません。
さらに「研究」が滞る(資金が無いと研究はできない)ことは「国家」の「衰退」に繋がります。となれば、経済が疲弊した国家は「みんな」が貧困に陥ります。これは「格差」云々の問題ではありません。
もう少し時間を進めてみましょう。
大学が少数精鋭による「学問」や「研究」に勤しむ機関であれば、社会は大学教育の価値(信用)を再評価します。そうすると、社会は優秀な大卒者を雇うために待遇を差別化します。もう分かりましたね。結局は循環(繰り返し)です。
ですから、学歴社会を撤廃しても根本的な解決にはなりません。
さらに、現在の社会では「大卒」の「差別化」に懐疑的な姿勢を示しながらも「大卒」の「学生」を求めている「不可解」な状態を醸し出しています。
従来の社会では「努力」ができる学生を、就活市場では求めていました。今でも、半分以上の企業や会社は当てはまるでしょう。
そのため「大卒」に求める資質は「大卒である事実」のみで十分でした。
このような「人材」を欲する業界では「資格」としての「大卒」を「努力」により「取得」した前提が担保されているから、大学教育を承認していた経緯(余談で説明しました)がありますので、これらが否定された「全入時代」に突入した現在では、既存の大学制度に懐疑的な意見を抱きざるを得ません。
となると「就活市場」で「大卒」として評価される「大学」は「努力」により入学が認められる「東大、京大、阪大、早稲田、慶應」その他、名門大学(難関大学)のみとなります。
就職活動での「買い手市場」は、大学銘柄で二分化します。
「努力」が評価される「社会」であれば、大学制度は衰退するでしょう。
しかし、就活市場において、企業や会社が求める人材に変化が表れています。
それは「主体性」「自主性」「能動性」を大学生に期待すると言ったものです。

私は社会人です。
ですから、学生時代に就職活動を経験しました。
自論(著者の経験)ですが、本当です。
「主体性」「自主性」「能動性」これらを意識する採用は増えてきました。
このような、人材を求める企業や会社の存在で「大学」の需要は維持されます。
となると「勉強」としての「大学」ではなく「学問」としての「大学」に期待が高まります。
「勉強」は「努力」を引き出すための「手段」です。
そして、その「努力」の「成果」が社会で評価されます。
されど「学問」は「主体性」「自主性」「能動性」を培う「手段」として社会で評価される可能性があるのです。
「学問」や「研究」の向き不向きが「仕事」に関係するとは言えませんが、それでも、社会(経済)活動の基本となる「能力」(主体性等)に欠かせない洗礼であるかのように思えます。
もちろん、自由の学問を探究することで主体性が必ず養われるとは保障できません。
生得的な作用である「性格」を後天的な教育で改善することは困難です。
ですから、自己に内在するポテンシャルを引き出す機会が「大学教育」であると言えます。
義務教育では、子供を「規格化」させる作用から「従順」な人材を社会に輩出します。そこでは、「従順」な人物に加工できる子供をピックアップする取捨選択の作業が行われているのです。
義務教育を受けることで「馬鹿」になるのではありません。
「馬鹿」のみをシステムに残すのです。
義務教育では「従順」な「馬鹿」を発見する作用があります。
しかし、大学教育では学問を通して正反対の性質を持つ学生を顕在化させるのです。
そのため、現在の社会に求められる性質を育む(厳密には発見する)環境が「義務教育」から「大学教育」に移り変わる過渡期であると言えます。
著者は「学問」を「手段化」することには反対ですが…。
このように「学問」を修得する過程で発生する「能力」が、社会(求められる)における意義のある人材を育むのであれば、大学制度を一律に否定することは出来ません。
意義がある人材が仕事に従事することで経済が循環するのですから、結果として人々の生活を豊かにします。ですから、これらの人材を輩出する大学を撤廃することの損失は大きいでしょう。

世間
世間

大学を義務化(義務教育化)することで学歴社会は崩壊して格差は無くなるだろ

このような主張が聞こえてきます。(大学の無償化も同様に考えます)
大学を義務化すると何か起こるのでしょうか?
まずは、メリットから。
大学を義務化すると教育期間が伸びます。
すると、国民の平均的な知能は向上するでしょう。
教育期間は社会が複雑化することで段階的に増える傾向にあります。
狩猟を嗜み、畑を耕していた時代、社会に出る訓練期間は僅か十年余りでした。
しかし、社会が発展すると次第に教育に費やす時間は増加します。
そのため、社会や経済、科学技術の進歩と共に教育期間が伸びることは自然の摂理です。
大学を義務化するメリットはこれくらいでしょう。続いてはデメリットです。
著者は子供の教育期間を伸ばすことには賛成です。平均的な知能水準が高まるのですから。しかし、現在の日本は資本主義です。知能水準が高まろうと、新たな指標で「勝ち負け」が生まれることは明確です。さらに、新たな指標で優秀な人材を確保したい社会は更なる差別化を推進するでしょう。みんなが「大学」に通うのであれば、その「中」から優劣を付けなければなりません。
学歴社会が「格差」を助長していると考えている方は「平等主義者」いえ「平等主義を期待」している受動的な人間なのでしょう。
現在では「大卒」と「高卒」はたまた「大学の銘柄」で「優劣」がつけられていますが、これらが「格差」の要因とは考え難いです。「格差」とは「需要と供給」の産物から発生するエラーのようなものです。優秀な人材を確保したい社会(企業や会社)と自己の価値を売り出す学生、これら市場に売れ残った人材が格差に陥ります。そして、市場の価格を決定する「優劣」は潜在的に備わっています。現在では「優秀」が「学歴」なのですが、それを排斥しても市場での価値を決めるたの「優秀」は必ず設けられます。
「みんな」が「大学」に通う世の中なら、どのように「優劣」を付けますか?
大学での成績が「優劣」の基準になるかもしれません。大学を義務化したのですから就職(採用試験)が大学入試(優劣)のような体系に変化するかもしれません。大学院が既存の大卒、大学が高卒のような評価になるかもしれません。
「格差」は「選定基準」たる「優劣」を定める「手段」(学歴等)に依存するものではありません。「人的リソース」の「配分」は変化しないのですから。

ポイント

「自由市場」「資本主義」の日本では「あなた」も人的資源として価値を図られる主体です。自己の価値を誰かが測定する以上そこには「優劣」が生まれます。「平等」と「格差」は根本的に異なる課題です。

著者は、教育を受ける権利を平等にすることには賛成ですが、これを「格差」の解消だと期待する考え方には賛同できません。
現在の大学制度は「教育を受ける機会」が平等であるとは言えず、改善すべき課題は多いかと思います。しかし「平等」にすることで「格差」が生まれることも確かです。
現在の制度では、優秀でない人間も「勉強」さえ出来れば評価される世の中です。それは「勉強」による穏健で「学歴」という「称号」を獲得できるからです。学歴を払拭した社会で「評価」が「努力」を対象とした指標であれば問題はないでしょう。ですが「平等」を担保することで人材の評価軸を失った社会(企業や会社)は「必ずしも」「努力」を新たな評価基準に定める補償はありません。大学を義務化することで、学問は勉強に変わります。制度やシステムは平均的な人間が利用できなければ意味がないのですから「答えがない学問」より「答えがある勉強」が教育には馴染みます。とすると、現在の社会が求めているであろう「主体性」「自主性」「能動性」を育む教育とは方向性が異なります。もしも、社会(企業や会社)が人材を確保するために「優劣」を付ける「手段」が「生得的」な「能力」に基づく「選出」だとしたら「平等」よりも「悲惨な」結末になります。
個人が生まれ持つ資質や遺伝子で評価されるのですから。
もちろん、世の中は「優秀」な人材が仕事を熟すことで効率や合理性が促進されるのですから、その恩恵として経済が潤います。
ですから「無能」は「優秀」に支えることで、それらの恩恵を享受できるのですが、彼らはその原理に納得しないでしょう。仮に「無能」が「平等原理」(遺伝子で決定される世の中)を覆したとしても、あるのは現在のような「不平等」を礎とした「責任転換」(学歴社会が格差を助長すると主張する人々)可能な社会です。
全てを平等にすると「損をするのは無能」です。
平等にしたことで「普遍的」な「価値」を評価せざるを得ないのですから「生得的」な「才能」(遺伝子)で「人間」の価値は決定してしまいます。
「勉強」は「誰でも」できるのですから、現在の社会で「誰でも」できる「作業」を就活市場の「指標」(評価の基準)として用いる可能性は極めて低いと言えます。
「誰でも」できることを評価しても仕方がありません。「誰でも」できないことが社会では利益となるのですから。「平等」にすることは「誰でも」を排斥し「能力主義」を促進するのです。
平等ほど恐ろしいものはありません。
差別や格差は常にすり替え作業です。
絶えず、非難する対象を変えていきます。
「学歴があるから格差が生まれる」ですが「学歴」により守られている「人々」も存在するのです。されど「学歴」による「権威」が崩壊したのであれば「平等」を謳う人々も声を荒げて「平等による不平等」を訴えるでしょう。

【まとめ】

結局は「やるやつはやる」「やらんやつはやらん」これが真理だと思います。学歴等の制度に関わらず格差は生まれるので、自己の立ち位置(社会の評価軸)により常に犠牲となる対象(自分が犠牲となるか)は変わるのです。格差(優劣)の選定を実施する手段を糾弾する行為は蜥蜴の尻尾切りと同じです。それよりも、格差の本質たる蜥蜴に着目しましょう。

・大学の機能不全

世間
世間

大学は機能不全に陥っている

みんな言います。
本当に機能不全なのか?

そもそも、大学の機能(役割)は社会が求める性質に応じる傾向があります。
大学が機能不全に陥るとしたら、その信頼が失われるタイミングでしょう。
この現象は前述したので「こちら」を参照してください。
研究機関又は学問の修得を目的とした、既存の大学制度は衰退したかもしれません。
しかし、進学率が増加している情勢から、大学と呼ばれる「箱」の需要は供給を上回る勢いです。
「箱」は用途に応じて役割が変化します。「箱」に積める「物」が無くなっても、新たな「物」を「箱」に入れます。ですから「箱」が廃棄されることはありません。
大学制度も同じです。
「箱」としての「大学」は、「物」を「研究や学問」から「教育・勉強」に入れ替えました。
そのため「機能不全」ではなく「機能の転移」と呼称したほうがシックリときます。

・大学教育の実態(大学の質)

現在の大学教育がどれくらい「ヤバイ」のか、著者の経験を交えてお話しします。
まずは、以下の記事をご覧下さい。

まさに「負んぶに抱っこ」です。
そもそも「大学」は「職業安定所」ではありません。「予備校」でもありません。
このような「教育」では「社会」の「求める人材」を送り出すことはできません。
たしかに「新卒採用」では「素直」な「馬鹿」を雇用しているのですから、そのような意味では大学は役割を果たしているのでしょう。[詳細]
しかし、社会が求める人材は徐々に変化しています。正確には変化しなければ日本に未来はありません。
そのために変わりざるを得ないのです。
基本的に教育は資金を払い学生や生徒はその権利を享受します。
つまり「金を払い相手にしてもらっている」状態です。
学校の先生や塾の講師には給料が発生していますよね。
ですが、社会(経済)活動は「自己に金(価値)が発生するのか」この考え方が重要となります。
寂しいように思えますが仕方がありません。

世間
世間

人間は金や価値じゃない‼︎

いえいえ。
その主張はあまりにも身勝手と言えます。
世の中は、自己の価値を提示しなければ相手は対価を支払いません。
買い物と同じです。
お金を払わずに商品を購入することはできません。
相手も生きているのですか、自己の存在が利益とならなければ価値は認められないのです。
自己の価値を示さずに「相手にされる」ことを期待しても意味はありません。それは、相手の権利を侵害する行為です。
お金を払わずに商品を持ち出したのであれば、その行為を咎められます。
そして「社会」では、このような身勝手な人物は歓迎されないでしょう。
されど、義務教育では「お金」を払わずに「商品」のみが手に入る異様な環境です。
ですから「勘違い」した「馬鹿」は、自己を過剰評価します。
義務教育に馴染む「真面目な優等生」が陥る症状です。
残念ながら「勉強」が得意な人物は、その経験が与える影響又は性質から社会(経済)活動ではマイナスな因子を持ちます。

勉強が得意=社会で活躍×
勉強が得意=学問の素質×

著者は大学で学生を観察していて常々思います。
このような「学生」は「取引」が下手だと。
学問のポテンシャルがある学生は「取引」を持ちかけます。
私は〇〇ができます。あなたは何をしますか?
私は〇〇を期限内に出します。そしたら〇〇をしてください
このように。
自己の行為に基づき相手に「何か」を要求するのです。
具体的に説明します。
優秀な学生は卒論のテーマを自ら考えてきます。
何を「テーマ」にしたいのか、そして、内容が指導可能であるのか、尋ねてくるのです。
指導可能であれば期限を設定します。さらに期限に提出するから添削しろと要求をします。
担当する講師が専門外から指導が不可能である場合には、自己のテーマの「何が」内容を逸脱しているのか、どの「内容」なら許容されるのか、折衷案の交渉、指導可能な「内容」、これらを訪ねるのです。
優秀な人間は相手から「必要」とされる「需要」と「自己」が「実現可能」な領域をまずは把握します。
学問も同様です。
相手と自分の相互関係(互いに補える箇所)を熟知することで、極めて完成度が高い卒論が完成します。
しかし、これらの「取引」が苦手な学生は「指示された作業を熟す」ことで精一杯。
さらに、「何をしてくれるのか」これを期待(講師や教授に)するに過ぎない学生は、自らの権利しか考慮しません。
それならば、相手も一方的に学生に作業を与えるだけです。自己の価値(何ができるのか)を提示していないのですから「できない作業」も与えられます。
「指示」を待つだけで「相手」が介入可能な領域を提示せずに「自己」の主張ばかりを展開するようになるのです。
結果、質が低い卒論が完成します。
これでは「勉強」です。
教育としての「勉強」では、受動的にならざるを得ません。
しかし、「学問」の特徴たる「学問中心」の考え方は「能動的」な「衝動」を誘発します。
著者は「学問」を「手段」にすることには反対です。
ですが、その過程(学問や研究を修得する過程)で「社会」に必要たる人材が育成されるのであれば許容される範囲です。
「学問」と「社会活動」は同質な構造を持つ故に「義務教育」の「弊害」を払拭し、社会が求める人材を育む性質がありました。
本来であれば「社会」を「リード」する「大卒」、その「期待」から「待遇」に違いが発生します。
ですから、企業や会社の「総合職採用」では「大卒」を募集要項に加えている場合が多いのです。
「リーダーシップ」を備えた人材の確保、この役目は義務教育では果たせません。
その尻拭いを担当するのが大学なのです。
社会に適した人材、主に上部構造を支える人材を育成する準備段階が大学(学問)の学ぶ環境とも言えます。
しかし、教育の場と化した大学は「能力」も「素質」もない人材を野に放ちます。
ここからは、著者が目の当たりにした大学教育の現状を伝えます。
まずは大学が職業訓練校又は就職訓練校と化している現状です。
この現象は幾度も記事で触れましたので詳細は割愛しますが、とにかく「ヤバイ」です。
今回は氷山の一角である「ゼミ」を例に挙げます。
大学には、ゼミや研究室と呼ばれる部活のような仕組みがあります。
ゼミや研究室への所属は大学により任意又は強制加入と違いはあるのですが、どの大学も内容や役割は変わりません。
本来は学問や研究に勤しむゼミや研究室、しかし、著者は驚くべき光景を目撃しました。
なんと「面接練習」をしているのです。
これは期間を限定した指導ではありません。大学の教授や教職員は学生を預かる立場から彼らのキャリアを蔑ろにすることはできないのですから多少の逸脱は許容されるべきです。
ですが「通年」を通して就職活動のための「面接指導」や「論文指導」を実施しているゼミや研究室が少なからず存在して
学問や研究の「質」どころではなく「やっていない」のですから。
まだまだ「ヤバイ」ことは続きます。
このようなゼミや研究室は就職活動の指導に時間を取られますので卒業論文を制作することが困難になります。
となると、卒業論文の丸写しが常習化します。既存の論文や研究資料、出版物、これらを「引用」と言う名の大義名分から「丸写し」を行うのです。
卒論論文は既存の文章を「要約」するものではありません。
それでは「勉強」です。
社会的又は学問的に意味を成さない卒業論文なんぞは制作する意味すらありません。
自己の努力に酔いたいだけの馬鹿が満足するような作業は他所でやってほしいものです。
そもそも「引用」は法律で定められています。著作権法では「引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること」(丸写しはダメだよ)が推奨されていますが「誰も」遵守していません。
むしろ「丸写し」なのですから主従関係が入れ替わっています。
著作物の複製は正当な目的と分量に限り認められているのですが、現在の大学生はお構いなし。
これでは「盗用」です
呆れます。
これらの「引用」に基づく「要約」はゼミや研究室が学生の就職支援に時間を費やされているための弊害だとされていますが、常習化された慣習は全体を蝕む癌細胞として振る舞います。
常習化した卒業論文の要約「みんなしている」のだから「いいや」これらの精神が大学教育を蝕むのです。
著者が感じたことは、卒論論文が要約作業であると信じ込んだ学生や教職員が大半であるとこと。
もはや「意図」や「自覚」なしに卒業論文を「要約」だと考えていることが恐ろしいです。
卒業論文の「丸写し問題」、著者はむしろ「現状」に「疑問」を持てない「学生」に「問題」があると思います。
記事の冒頭で大学の役割を説明できない大学生についても触れました。
著者は不思議です。
なぜ「疑問」を持たないのかと。
義務教育で「餌付け」された人々は与えられた作業しかしません。「思考」を放棄しているのですから。
就職活動でもこれらによる弊害は見られます。

与えられた情報やサービスを鵜呑みにして騙される学生は「疑問」を持てないのでしょう。
著者は先日、YouTubeで「ワニの背中に鳥が乗る」の動画を視聴しました。
「自分は何をしているのか」「自分は何を活用しているのか」理解は愚か「疑問」すら持たないのですから「ワニの背中に乗る鳥」と同等の知能しか持ち合わせていないのでしょう。
物事の意義や行為の理由を追求できることが人間の特権です。
懐疑的な思考は動物にはありません。
さらに、著者は「疑問」を持つことが「学問」のはじまりであると考えます。
卒業論文を要約する行為に疑問すら抱かない学生は、そもそも学問や研究に携わるべきではないのかもしれません。
大学の質が低下する要因に指導する教授や教職員のレベルが低いことも挙げられます。
今回はその一列を著者の経験から以下に取り上げました。

調べさせようとする教授

学生に対して物事を調べさせることに熱意を注ぐ教授又は教職員は学問を理解していません。
もちろん、学生が調べる過程で培われる能力、研究や学問の分野を全体的に理解させる工程を円滑化又は深める目的で努力を強いることはあります。
学問であれば学説の対立から課題や問題を論じます。
学説の結論のみでは課題や問題を論じるに至りません。ですから、主体となる学説同士の結論に至る過程や経緯、その内容を熟知しなければ互いの結論を折衷することは愚か本来その学説が主張する意味すらも理解できないでしょう。
そのため、結論を含めた過程を調べる(理解する)必要があるのです。

調べさせようとする教授の何が悪いの?

調べる行為が成立する条件とは答えがある事象のみに限ります。答えがなければ調べようがありません。
ですから、調べる行為は「勉強」です。
「学問」に「勉強」を持ち出すことは言語道断、許容できません。
意味がないなら尚の事。
大袈裟な例えを出します。
あなたは法学部の学生です(仮定)。
とある学説の正当性を証明しようと研究に励んでいます。
学説に用いる「条文」を探していると六法全書の一部が欠けていて読めませんでした。そこで、欠けている箇所の条文を覚えている教授に尋ねたところ自分で調べなさいと言われました。
読書の諸君はどう思いますか?
著者は無駄な行為に思えます。
「答え」があるにも関わらず「調べさせる」ことは経済活動で示す「機械費用」の損失でもあります。「調べる」を簡略化することで他に労力を割けるのですから学問や研究の発展に寄与できます。されど、自己が努力した教訓を得るために学問に励むのではその主体性を失います。それでは、勉強であって学問ではありません。
社会(経済)活動でも失敗するでしょう。

このように、調べさせることに意義を感じている教授又は教職員は数多く存在します。
義務教育では、勉強は努力させるための手段故に無駄な行為に意味がある場合もありますが、学問の本質はそこに由来するものではありません。
何かを勘違いした教授や教職員は大学生に「調べさせよう」とします。

学問中心主義

学問を強要する教授

著者
著者

「自由」だからこそ「学問」には意味ある。

著者は「学問は自由であるべき」と考えています。
誰にも強制されない、絶対的な任意性が学問には必要です。
現在の大学教育では、学問が贅沢な嗜みとして考えられていないようで、少し残念です。
一に「単位」二に「単位」三に「単位」
大学生は「単位」のことしか頭にありません。
「単位」を取るための課題
「単位」を取るための出席
「単位」を取るための学修
著者が大学に在学していた頃に、友人から質問されました。「どうしてお前は単位数が足りているのに〇〇の講義に出席しているの?」このように。
私は答えました。「大学の講義はバイキングだと思っているんだ」そしたら、友人は頭を悩ませていました。
当時の著者は、学費は同じなのだから多くの講義に参加したほうが得であると考えていましたので。
もちろん、面白味のない講義は寝ていましたよ。
でも、それが学問を修得する上での本質なのかなって今では思います。
反対に、大学の講義で寝ている学生に説教をする授業がいるのですが、なんか説得力に欠けているように感じるのですよね。
講義を聞く姿勢が悪い学生は社会で生きていけないとか、恥をかくとか、とりあえず説教は指導なのですから、それは教育、強いては勉強です。
講義中に騒ぐ学生は指導すべきですが、他は放っておけば良いのに。
さらに「学問中心主義」の観点から考えると、教授が学生に学問を教える意義は分野の発展に寄与するポテンシャルがある故に時間や指導に費やす労力が換算(報われる・利益になる)されると言うもの。それは、互いの努力を無駄に消費する行為を失せげるのだから、学問の修得に適さない個体に費やすであろう機会費用の余剰を他に活かせます。
ですが、大学は学生に平等に接する故に、その行為の皺寄せは、学問や研究の停滞や損失としての弊害を対価として支払うのです。
他にも「指導」による悪影響が存在します。

大学
大学

寝るな!話を聞け‼︎講義に参加しろ‼︎

このように、学生も「指導」されるものですから「期待」します。
何かを「してくれるだろう」と。
こうして「与えられる」だけの「勉強」が始まるのです。
特に、大学では単位を取らなければ進級できません。
著者は、この単位制に問題があると考えています。
単位は「与えられる」ものです。ですから、必然的に「上」と「下」の関係が学生と指導者との間で生まれるのです。
これでは「教育」と変わりません。
学問に「身分」はないのですから、学生は教授や指導教職員を「さん」と呼ぶ、又はそのような関係性を目指すべきなのです。
でなければ、学問や研究の根本原理たる「懐疑」を養うことは難しいでしょう。
単位制に固執した学校は、「学生」も「教授」も、誰しもが束縛されます。
与えられることに慣れた学生と与えることに慣れた教授又は教職員が学問ゴッコ、研究ゴッコに勤しむのですから。
それでは単位制を無くしたら?
学生は学修しなくなりますね。
著者は単位制と言うよりも、これらの制度を扱う人々に問題があるのだと考えます。
特に日本の大学は、みんな進級できます。
これ、異常ですよ。
著者がアメリカのカリフォルニア州に留学した経験をお伝えします。
高校生の頃です。
アメリカの高校に短期留学しました。
そこではアメリカの高校生と交流、授業に参加、ホームステイ、様々な思い出があります。
特に印象に残ったことは「留年」です。
とある日、学校の廊下を歩いていると顔写真が壁一面に貼られているのを目にしました。
生徒会長でも決めんのかな?と思っていたら「留年」が決定した生徒達の写真でした。
厳密には「落第」ですが。とりあえず「1年」勉強する時間が増えることには変わりありません。
壁一面に貼られた人物の写真は数十枚もありましたから、アメリカと日本の留年に対する考え方や制度が全く異なることが分かります。
しかも、高校ですよ。
そのため、アメリカの「大学」であれば「留年」はもっと「普通」のことなのでしょう。
日本の大学制度は単位を「渡す側」と「受け取る側」に義務感みたいな圧力が生まれているように感じます。 
義務感は「学問」の「能動性」を奪いますから、結果として「質」が低い「研究」や「学問」のゴッコ遊びしかできなくなるのです。

・大学に通うべきか?

世間
世間

大学は意味がない 
だから行くな

大学に通うべき人物とは?
著者は思います。      
何故大学に通わないのかと。
大学とは研究機関です。ですから、就職を斡旋する教育機関ではありません。
しかし、実情として大学は学生のキャリアを実現(その責任を負う)する側面を持っています。
そのため、大学を卒業した学生の待遇が他の者と比べて優れていることは明白です。
大学に通うことに否定的な人々は、凡ゆる言葉で大学を非難します。
大学は無駄である。
通うべきではない。
何も身に付かない。
遊ぶだけである。 
このように。
こちらで述べたように大学の実情は悲惨なものです。ですから、大学が社会に与える恩恵又は必要性や役割は既存の条件(大学の意義)を満たしているとは言えないでしょう。
大卒と高卒、大学教育が衰退した弊害により社会人としてのステータス(就職後の能力)は遜色ありません。故に、大学の教育に費やされる時間や労力又は資金が無価値であることを説き、採用する費用が少ない同一価値(大卒と高卒の能力は同一)の高卒が就労するにあたり最善の選択であると主張するのです。
ですが、この主張は「社会」の「問題」であると言えます。
大学に通う時間や労力が無駄である現状の教育システムは「学問」を軽視したことによる弊害なのですが、これらが齎す損益は国家に内在する課題や問題です。
著者も現状の大学教育には不満を抱いていますが、個々の生徒が大学に通うべきかの論争は隔てなければなりません。
大学に通うべきかの選択は「あなた」の問題であって、「大学」強いては「社会」の問題ではないからです。
学問を修める身として大学に通う意味はなくとも、自己の将来に費用を投じる行為として大学は相応しいと言えます。
ですから「就職」のため、「将来」のため、「あなた」が大学に通う根拠はここにあるのです。

著者
著者

大学を就職の場にすることには反対
しかし、本人のメリットを考えたら大学には通うべき

大学に限らず、社会で生きる上で「勉強」が役に立つのか、仕事能力に比例するのか、義務教育には意味があるのか、このような論争も、問題点は似ています。
されど、既存の仕組み(システム)で、とある事柄(勉強や大学)が社会で評価されているのであれば、それを活用した生き方が賢いと言えます。
残念ながら、既存の仕組みに諍い自己を陥れる行為は愚かとしか思えません。
大学に通うメリットが自己の目的(就職等)に帰属するのであれば、教育機関(キャリア形成)としての役割を期待できる大学には通うべきです。

大学に通うべき人物とは?

大学には「優秀ではない」人物が通うべきでしょう。
読者の諸君は、無能でも「これさえあれば」社会で活躍できる「万能なスキル」を知っていますか?
それは二つです。

挨拶
勉強

現在の社会では「人」を評価する指標に「挨拶」と「勉強」が用いられます。
就職活動の学力試験や採用面接などが主です。
これらは、人間を評価する指標に最も優れています。何故なら「みんな」するからです。
生物は自己と異なる性質を排斥する傾向から「類似指数」が高い個体を「安全」であると認識します。
それを(類似指数)人間社会では「挨拶」や「勉強」を用いて個体選別するのです。
協調性や同調圧力、これらの行為も本質は同じです。
さらに、マナーやモラルも似たような側面を持っています。
例えば「マスク」。
コロナ禍の現在、公共の場で「マスク」を付けない人物を見掛けたら「変わってる人だな」「危なそう」このような感情から自然と距離を置くはずです。
そして、就職活動(新卒)でも、採用する企業や会社は雇用する人材に安定性(同一性)を求めています。これを、証明する手段が「勉強」であり「学歴」でもあるのです。

優秀な人間は同一性に依存しなくとも生きていけることから既存の仕組み(システム)に馴染まない特性があります。
同一性を担保するために機能する仕組み(システム)は、その目的から主体となる共同体(人々)の平均的な個体(例えば学校の授業は平均的な能力を持つ生徒が理解できる難易度を設定している)が、機能(同一性を担保する作用)による恩恵を効率良く享受できる構造になっています。
そのため、優秀な個体は傑出した能力から、既存の仕組み(システム)を逸脱しなければ自己の意義が消失又は自我同一性を維持できなくなるのです。
優秀ではない人間は同一性による安定を社会に提供することで存在価値が承認される一方で、優秀な人間は同一性を放棄しながらも社会に自己の意義を認めさせなければなりません。
優秀な人間を「扱えない」原因はここにあるのです。
規格に合わせて教育された人物と、自己の価値を能動的に認めさせようと生きてきた人物、優秀な人材が扱い難いのは当然です。
既存の枠組みを外れても成功する人物は優秀な個体、されど、優秀ではない個体は大学に通うべきなのです。
ここで、頭が悪い人間は考えるでしょう。
あえて「普通」ではない選択をすることで自己の価値が高まると。
中卒や高卒で成功する人物は優秀です。しかし、中卒や高卒だから成功したのではありません。彼らが優秀だから成功したのです。
頭が悪い人間は成功者の行為を真似ようとします。成功の根底に中卒や高卒等の学歴は関係ないにも関わらず自己を過大評価した馬鹿は表面上の行動のみに着目するのです。
そもそも、行動や経歴に敏感に反応している馬鹿は学歴を意識する余り目的を蔑ろにします。

著者
著者

突然ですが、グラッドウェル氏による「1万時間の法則」をご存知ですか?

彼によれば、何事も「1万時間」努力すればプロに匹敵する実力が身に付くそうです。
真意は定かではありませんが。
そして「1万時間」の努力は意識してはならないそうです。
この話は有名ですよね。
気が付いたら「1万時間」経過しているような興味と熱意に意味があるのだとか。
誰が言ったのかは知りません。
とりあえず、成功者は無意識の選択が、行為や行動を裏付けています。
大学に通わない選択も無意識故に、自己の行為や行動を遂行する過程で自然に淘汰されたものだと言えます。

気が付いたら大学に通わない選択をしてたわ

著者は高校まで学校の教職員と喧嘩することがありました。
そこで、友人に言われました。
なんで学校の先生に逆らうの?と。
著者は友人の発言に疑問を抱きました。
学校の教職員と争うことが目的ではありませんし、逆らう行為は自己の行為や行動を遂行するために生じた意図しない障害です。
しかし、友人は学校の先生に逆らう(言い合う)行為に論点を絞っています。
なぜ逆らうのかと。
逆らう行為は自己の目的に付随する過程即ち障害である故に意味などありません。
されど、その友人は「先生に逆らう」行為のみを意識していますので、本来の課題や問題を解決しようとする著者の思考を読み解くことは不可能でしょう。
大学に通うべきでないと主張する人々は言います。
「高卒でも成功できる」
このように。
高卒からの成功を意識しているのですから愚の骨頂。優れた人間は「成功したら高卒」だったのです。
「規格に合わせて教育された人物」が同一性を得る過程で「他者を真似る」プロセスが組み込まれているように、成功者の行為に感心(成功者を真似る)を示す「あなた」は、やはり優秀ではないのです。
そのような「あなた」は「大学」に通うべきだったのです。
大学教育は優秀ではない人間こそにメリットがあります。
学歴とは勉強したことの証明でもありますから、大卒資格を有するだけで「下駄を履いた」状態として評価されます。

なのに、なぜ、優秀ではない「あなた」のためにある「大学」を利用しないのでしょうか。
不思議でなりません。
そもそも「学歴」や「大学」に否定的な意見を持つ人間は既存の大学制度に少なからず嫌悪感を示しているのでしょう。
もちろん、政策や雇用、大学の役割を問題視するために批判を展開する場合もあります。されど、前述したように、大学に通う意義は選択する本人のメリットとデメリットを考慮する他に必要な要素はありません。
ですから、大学教育に関連する議論や論争で否定的な立場を支持する者の大多数は、「学歴」又は「大学」による恩恵(メリット)を享受されなかった人々であると解釈できます。
大学や学歴が存在することにより、自己の人生に損失を被ったのですから、逆説的には、大学や学歴の必要性を肯定している矛盾に気が付いているのでしょうか。
何故なら、自己に学歴があれば問題は解決していたからです。
大学への進学を避難したいのであれば、少なからず否定する本人は大学による恩恵とは無縁な立場でなければいけませんよね。
大卒者を遥かに凌ぐ功績(所得等)を残した優秀な人間であれば、大学や学歴とは独立した存在として振る舞えます。

「馬鹿こそ大学に」(取り柄がない)
「やりたいことがないから大学に行く」
「とりあえず大学に通ってみる」
これ、正しいです。

将来に希望も夢も無いような人物は大学に進学することを薦めます。
何故なら、このような人物は優秀ではない(平均的)からです。
著者も高校までは「やりたいこと」がありませんでした。
ですから凡人なのでしょう。
しかし、ほとんどの人間は特出すべき才能を持ち合わせていないのでご安心を。
秀でる「何か」を持つ人間の「選択肢」は必然的に狭まると言われています。その秀でる「何か」を職業(選択)に選ぶからです。
「数学」が得意なのにわざわざ「国語」を選びませんよね。さらに「数学」と「国語」どちらを選択するか悩みもしないのです。
優れた才能や能力を有する人物は、その「道」に進みますから「選択肢」は狭まります。特に「天才」と言われる人々は幼い頃から、その予兆がありますので他の個体とは差別化されるでしょう。
選択肢を広げることに躍起になっている我々は、年齢を重ねても他の人々と差別化されるような個性が発現しないことから凡人と言えるのです。
このような「何もない」我々に「下駄」を用意してくれる機会が「大学」であり「大卒資格」です。
記事の前半と内容が繋がりますが「何にもない無能」こそ大学に通いましょう。

世間
世間

大卒資格を得ても就職できなければ意味がない。大学が教育機関だとすればゴールは就職。就職活動では高学歴が有利。ならば、銘柄に欠ける大学に進学する意味は無い。高卒で働いた方が良い。

優秀な人物が自己のポテンシャルを発揮するために必要な条件をご存知ですか?
それは「暇」を作ることです。
大学では「暇」な時間が増えます。もちろん、学部によりますが。
優秀な人材は、束縛された環境よりも、開けた自由な空間を好むことから、その行動が大学生活で活発化するのです。
優秀な人材が能力を発揮するためにも大学は欠かせない存在であると言えます。

・Fラン大学に通うなら就職しろ

学生が大学に通う理由は将来性を担保するためです。
高卒よりも大卒は、高待遇、高収入、これらは文科省の統計からも明らかと言えるでしょう。

ここで「高卒でも大卒より稼ぐ人はいる」なんて頭が悪い反論は無視します。
さらに、学歴は賃金に限らず雇用形態にも違いが見られるようです。

世間
世間

でもFラン通うくらいなら高卒の方が良くない?

いえ、そんなことはありません。
なぜか学歴コンプレックの方々はFラン叩きをします。
彼らよりも優れていると思い込みたいのでしょうか。
それとも、遊んでいる大学生が許せないのでしょうか。
彼らの言い分は以下の通りです。

Fラン大学に入学しても就職ができない
Fラン大卒より高卒のほうが収入が高い

たしかに、統計的に分析すると偏差値が50以下の大学の生涯賃金は低い(高卒よりも劣る)ように思えます。

高卒生涯年収 約2.1億円
大卒生涯年収 約2.5億円
Fラン大卒生涯年収 約1.8億円
参考: Fラン.com

一般的に大卒は、機会費用の観点から「得」すると言われています。
大卒と高卒の生涯年収の差が大学費用を上回れば大学に費やされた時間や労力、費用は報われます。
しかし、Fラン大学生は大学に通うことで機会費用の損失に繋がる恐れがあるのです。

世間
世間

やっぱり高卒の方が得じゃん

著者は、Fランでも大学に進学すべきと考えます。
理由は二つです。

就職に大学のランクは関係ない
大卒資格が無いと就けない仕事がある

Fラン大学生だから就職できない。
これは思い込みです。
たしかに、超一流企業から内定を貰うことは難しいと言えます。
されど、一部上場企業の総合職くらいなら「余裕」で内定します。マジです。
しかし、Fラン大学生は一部上場企業にエントリーしようともしません。また、エントリーしても学力が低いことから筆記試験で落とされます。これは、自身が属する大学の銘柄で不採用にされたのではなく、本人に原因があります。

エフ(Fラン大学就職チャンネル)氏より。

高学歴層が仕事能力に優れている統計(勉強が得意な学生は努力ができる)があるにも関わらず大学銘柄で足切りをせずに学力試験を実施していることが根拠(Fラン生にもチャンスがある)です。
就職に関する記事は以下をご覧下さい。

著者
著者

学歴フィルターは嘘です

就職できないのは大学の銘柄ではなく自分の実力が無いことが原因

たしかに、Fラン大学からでは、総合商社、財閥系、大手金融、これら「超」一流企業から採用されることは困難に思えます。
されど、このような企業に採用されることのみが大卒資格の意味ではありません。
むしろ、中堅の企業や会社、上場企業に就職できれば大学に費やした費用を収入により補うことが可能なのですから、高校卒業から就労するよりも機械費用は優れていると言えるのです。
著者は、収入や求人数、これらを重要視するのならば絶対に大学に通うべきだと考えます。

実は就活が難航する原因は〇〇にあった。

Fラン大学から就職が困難であると言われている理由の一つに学部が関係しています。
理系と文系の学部、これらを比較すると理系の学生が圧倒的に就職活動では有利です。
何故なら、文系の学生に出来ることは理系の学生にも出来るからです。さらに、理系の学生が出来ることは文系の学生には出来ません。
心理学や法学等の学部を除き、大学で得た知識を社会で活用することが難しいことから文学部の学生は必然的に就職活動の敷居が高くなるのです。
しかし、理系学部の学生は仕事に応用できる学問や研究を大学で習い習得することから就職活動での選択の幅が広がります。
理系学部生がエントリーする企業や会社、さらに、理系と関係性が無い(文学部の学生がエントリーするような)企業や会社、どちらも選択できるのですから、就職活動では有利と言えるのです。
Fラン大学から就職が難しいとされる要因は、ここにあります。
基本的にFラン大学は文系学部が多いです。何故なら理系学部では、学問や研究(講義)を修得(受講)するための予備知識として、既存の勉強(高校までの勉強)を理解する必要があるからです。そのため、偏差値が低い生徒は大学入試の段階で省かれます。しかし、文系の学生は高校以前の勉強とは独立した分野を学ぶことが多い故に偏差値が下がるのです。
これより、Fランと呼ばれる大学は自然と文系学部の割合が増加するのです。

Fラン大学の学生が就職する業界
・ 小売業
・ 流通
・ 運輸
・ 飲食
・不動産

さらに、文系の学生は理系の学生に比べて所得が低い統計があります。

理系の学生は現在の社会で急速に発展(求められる)する情報工学を学ぶのですが、需要と共に所得も上がるのでしょう。
就職を意識して大学に通うのであれば、選択肢が狭まる文系よりも理系の学部がオススメです。

大学に通うべきではない人々

著者
著者

優秀ではない人間こそ大学に通うべきです

著者は、口を酸っぱくして言います。
しかし、これには例外があるのです。
それは「馬鹿すぎる人物」です。
頭が悪すぎると大卒者を対象とした就職活動では内定は愚か履歴書すら書けない事態に発展します。履歴書を書けないと言うのは、そこに辿り着く過程も含めます。ですから、選考以前にエントリーする企業の目星を付けられない、何をしたら良いか分からない、このような学生を示します。
確かに、大学は優秀では無い人物が通うべき機関ですが、これにも限度があります。その限度を逸脱した「馬鹿すぎる人物」は大学に入学するべきではありません。
では「何をもって」馬鹿すぎると認定するのでしょうか?
実は「答え」がないのです。
勉強が得意なことは判断材料の一つではありますが、それだけではないのです。
なら知能指数では?
いえいえ、全く関係ありません。
これらの就職活動で学生が直面する問題は以下の記事で説明しているので参照を。

大学生の就職活動には「癖」があると思います。普通科高校を除いた専門学科高校(職業高校)から就職する場合には、採用に関する難易度は大卒の就職活動に比べて低いです。
そのため、所得や待遇を考慮せずに確実に正社員としての採用を望むのであれば、高卒として就職する選択も否定は出来ません。
大卒資格が無ければ採用されない仕事がある
主に転職で後悔するでしょう。
求人募集の項目に学歴を設けている企業も少なくありません。
現在の日本では終身雇用制度の存続が危うい状態です。
転職が「当たり前」になると中途採用に応募者が殺到します。そうすると採用コストを抑えるために「学歴」で足切りする企業や会社も増加します。
特に、高卒で就職して技能や能力を身に付けようと将来設計している方は注意が必要です。
これまで以上に、学歴による求人の差別化が発生します。
さらに、専門学校や職業訓練校は収入を得ることを目的とするのならば適していません。広告で目にする技能や技術を養い社会で活躍する人材を育成する等のスローガンには注意が必要です。
世の中は不合理なもので、実力や能力よりも肩書きや権威が重要視される傾向から、専門学校や職業訓練校でスキルを得たとしても、収入(大卒者よりも劣る)は疎か、採用すらされないこともあります。もちろん、専門学校や職業訓練校と提携している企業や会社からは求人が集まるでしょう。ですが、将来的に転職を視野に入れている場合や、技能や技術のみを習得して社会に活かそうとしているのであればオススメはしません。
そもそも、企業や会社が人件費が安価(大卒ではない)な専門学校や職業訓練校を卒業した学生を採用するのには理由があります。
それは、専門的な知識や技能を有する人材を即戦力として活用できるからです。
学校の講義で培われる技能と仕事能力は比例するのですから、方向性が同じ企業や会社からは求人が集まります。
しかし、即戦力として投入された人材は基本的に現場職に留まります。企業や会社は、技能や技術を持っている現場職の人材を、あえて他の部署へ流出させたくはないのでしょう。
反対に、技能や技術を持たない大卒採用者は最初からオールラウンダーとして採用されます。何故なら、何もできないからです。
「優秀な人物は選択肢が狭まる」と説明したように、ここでは「技能や技術」に長けている人材の選択肢は狭まり、何も特徴がない人材(大卒)は仕事が出来ない故に選択肢が広がるのです。
とすると、専門学校や職業訓練校を卒業した人物よりも、大卒者に経験の機械が多く与えられることから、収入にも開きが生まれます。
さらに、習得する技能や能力を絞り込み訓練された彼らは、同じ業界を盥回しされることから賃金や待遇の変化を期待することは難しいでしょう。
それならば、大卒資格を取得するだけで求人数(チャンス)が増えるのですから、大学に進学することにメリットがあるように思えます。

[まとめ]

上記で述べたように大卒者の就職活動に対応できない人物は高卒者採用制度(専門学校や職業訓練校)を活用すべきですが、一般的な知能と能力を有しているのであれば大学を卒業しましょう。

[高卒のメリット]
普通科を除く高等学校から就職する場合には採用の難易度が低い。
[大卒のメリット]
転職する場合に大卒資格が必須なことも。
求人募集の数が増える
Fラン大学からでも「余裕」で上場企業から採用される

専門学校や職業訓練校、夢や希望のために通うのであれば素晴らしいことです

今回は大卒と高卒の収入や待遇の比較をピックアップして記事にしています。
ですから、大卒者を除く労働者を非難する内容に思えるかもしれません。
しかし「収入」は自己の幸福を実現する手段の「一つ」です。
仕事に「求めるもの」は人により異なりますから。
ですから、将来に夢や希望がある者は自己が幸福を実現するために必要な選択をすれば良いと著者は思います。

世間
世間

就職できても高学歴が出世するからFラン大学生には未来はない

インターネットの情報を鵜呑みにしない方が良いですよ。
著者は、Fラン大学を悉く避難する記事を見かけました。
その記事ではFラン大学生が就職しても大学歴差別により低収入であるとされています。
所属する企業や会社によってはそうなのでしょう。
されど、公務員までが出身大学により待遇や地位において差別されると紹介されていたのです。

著者
著者

上記で紹介したように、Fラン大学生には公務員をオススメします。

インターネットに書かれている記事は収益を目的にしています。
誰も慈善で記事は書きません。
私の記事にも広告が付いていますよね。
ブログの収益は主に二つで、アドセンスとアフィリエイトです。
アドセンスは、広告がクリックされることによる収入、アフィリエイトは商品やサービスが購入又は契約されることで発生する成果報酬です。
ブログを書いている筆者は主にアフィリエイトで収入を得ています。
このアフィリエイトは、自身の記事から商品やサービスを購入又は契約させるために読書に情報を発信しています。
ですから、商品やサービスを購入又は契約させるために、ブログ運営者の都合の良い情報を読書に伝えている可能性もあるのです。
インターネットでは知りたい事柄を検索すると「それらしい」情報がヒットします。
しかし、どれも誰かの利益を潤すために発信された情報であることをお忘れなく。

逸れましたが、大学歴が就職後の仕事に与える影響は微々たるものです。
仮に高学歴者のみが出世するのであれば、実力が優れているのでしょう。当然ですが、高学歴者は秀でる知能から多くの成果を挙げます。ですから、企業や会社の枢要な位置に高学歴層が集まることは贔屓でも差別でもありません。
もちろん、学歴を判断材料として人事権を行使している企業や会社も少なからず存在します。ですが、それは「一部」に過ぎません。そして「学歴」が出世に繋がる企業や会社には「学閥」が存在する傾向があります。「学閥」があるのですから「歴史がある」企業でしょう。そのような「歴史がある」企業は現在まで生きながらえてきたことから「大手」や「大企業」と言えます。
そのため、「学歴」による不当な差別が存在しても、自身が属する企業の規模から、所得面で「高卒者」に劣ることは無いと言えます。

【まとめ】

ほとんどの企業や会社の求人には大学歴フィルターは無い
大学歴差別がある企業はそもそも規模が大きいことから大卒で採用されると出世せずとも高卒者に比べて多くの収入が手に入る

・学歴コンプと大学不要論

著者
著者

学歴コンプレックの人々を対象とした記事です

著者は考えます。
大学歴に拘る人々はどのような考えを持っているのでしょうか。
インターネットでは常日頃から「Fラン大学に通うべきか論争」が繰り広げられています。
高卒で働いたほうが生涯賃金が高いからFラン大学に通うべきではないとする主張、これらは統計に基づいた意見なのですから尊重するべきです。
しかし、大学に進学していない者が内情を理解せずに「大学は研究機関だ」「Fラン大学では就職できない」と発言(多用されるインターネットスラングの一例)している姿は実に滑稽です。
さらに「大東亜帝国以下」「偏差値〇〇以下」は大学ではない等(多用されるインターネットスラングの一列)の二極化(責めるべき対象を絞るために境界線を引く)した考え方は、大学を批判するための予防線(統計上では大卒者が高待遇又は優秀である故に劣等感から一矢報いたい意識を打つける対象として境界線を定めて二極化する)であると推察できます。
彼らは自尊心を保つために「あいつらよりはマシだ」と思い込みたいのでしょう。
知りもしない事柄に対して御節介を焼きたくなる心理は、善意とは異なる「何か」が無ければ生まれませんから。
自身が知っている内容を他者に伝えようとする心理は理解できますが、自己の知り得ない情報を「あえて」仕入れて啓蒙しているのですから、それには「特別」な心情が介在しています。
人間は自己保身に限り能動的に活動する特性から、「現状に不満」を持つ人物が「自尊心」を保つための防衛機能として「Fラン大学に通う必要はない」と発言しているのだと推測しています。
でなければ「あえて」知りもしない領域の「論争」に関わるなんてしませんから。
学歴コンプレックを抱く人々の特徴は何も低学歴(高卒)だけではありません。
これらの根底は「自己保身」なのですから。
大学に通いながらも、就職等に失敗した人物が、学歴コンプレックを隠れ蓑として「論争」に参加するのです。

Fラン大学卒の責任転嫁する学歴コンプレック達

著者は何度も説明しています。
制度では無く個人であると。
Fラン大学には馬鹿が集まるのですから、就職活動で難航するのは当然です。
ですから、Fラン大学に通うと就職できなくなるのではなく、馬鹿が大学に通うと就職できなくなるのです。
Fラン大学と呼ばれる制度が就職を困難にしているのではなく、そこに属する学生に問題があるのです。そのような学生は仮に高学歴であっても失敗するでしょう。
「優秀ではない人物」は大学に通うべきと主張する著者ですが、就職すらできない馬鹿は「例外」として考えています。
そもそも、優秀ではない人物の定義(ここでの定義)は、既存の教育システムに寄生した生産性がない者を指します。
つまり、勉強のみが得意な「真面目君」です。
このような、学校教育に適応した受動的な人物は能力や才能が無いことから社会では評価されません。
詳しくは以下を参照してください。

しかし、勉強が得意な「真面目君」は、実社会では良い評価をされています。
偏差値や学歴が収入と比例する現象が根拠です。
何故なら、優秀ではない彼らは「努力」が出来るからです。
能力が重視されない新卒採用では、優秀ではないことが然程の足枷にはならないのです。
さらに、学校に対する信頼性を保つ作用として、学力の有無が将来性に関連しなくては、為政者が国家を統治することは難しいでしょう。
学校は、社会に適応した人物を育成するため、統一の価値観を植え付けます。その過程(手段)として「勉強」が利用されているのですが、もしも「勉強」に費やす「努力」が無意味な工程であるとしたら、誰しもが「勉強」を放棄します。そうすると、教育の目的たる「価値観」の統一化を図るプロセスに影響を及ぼしか兼ねません。
ですから「勉強」が「得意」(努力を積み重ねてきた)な「優秀ではない人物」は、社会の構造を維持するために「学歴」と言う権威で「あたかも優秀である」と評価されなくてはならないのです。
その結果、人々は努力に意味を見出し自然と統一化された群集を形成します。
「優秀ではない人物」が大学に通うべきとする主張は「学歴」が「努力」と同一の意味を持つ故に「無能」でも「評価」される世の中だからです。
前述したように「無能」でも「勉強」が得意ならば就職できるのですが「勉強」もできない「馬鹿」すぎる人物はそれすらも困難になります。
Fラン大学に進学しても「馬鹿」なので「大卒(新卒)カード」を活かしきれずに非正規労働、そして、Fラン大学の批判を展開します。
就職すらできない馬鹿は「優秀でもない」のに「努力」すらしてないのですから救いようがありませんね。
このような馬鹿が大学に通うと就職できない事態に繋がります。

Fラン大学に通わずに高卒で就職した方がメリットなのか?

残念ながら、このような馬鹿は生得的に馬鹿なのですから、環境に関わらず恵まれない運命を辿るでしょう。
Fラン大学に進学できる学生は恵まれています。努力せずとも大学卒として認められるのですから。この恵まれたFラン大学の環境を活かせずに「Fラン大学は就職できないから行く意味はない」と発言していることが頭が悪い証拠です。
このような頭が悪い人物は「Fラン大学」だから失敗したのではなく「頭が悪い」ことが原因です。職業高等学校(専門高校)から就職するなら未だしも、普通科高校から高卒として就職したとしても「頭が悪い」のですから、結末は同じでしょう。
著者は、このような人物が人生の岐路で決断すべき選択(就職か進学)の答えを持ち合わせていないことが非常に残念です。

・努力してきた人物は能力や成果に関係なく評価しなければ後に続く人々が努力しなくなる。
・優秀でない人物が大学に進学することで、本人のメリットはもちろん、社会全体が活発化(競争意識)する。
・例外として馬鹿すぎる人物がFラン大学に進学すると就職出来ずに詰む
・Fラン大学だから就職することが難しいのではなく、馬鹿が就職に苦戦するだけの話

著者が無能ほど大学に行けと釘を指す本質です。無能でも学歴があれば評価される根底には、努力が大きく関係します。努力できる証明は自身の学歴です。努力してきた人間が評価される世の中であれば誰もが努力します。さらに、最低限の仕事を遂行するためにも努力が必要です。故に社会は学歴と言う努力を評価するのですから、無能は大学に通うべきなのです。されど、馬鹿すぎると評価以前に就職すら出来ませんのでご注意を。

世間
世間

努力を証明する道具が学歴ならば努力せずとも入学できるFラン大学はいらない

まさに、その通りです。
しかし、世の中は「Fラン大学」を意外にも「大卒」として認めています。
それが、問題なのです。
学歴コンプレックを抱えている人々は叫びます。
「Fラン大生が就活すると地獄だ」
著者は思います。
そうあるべきと。
日本の大学教育の実態は酷いものです。

学歴が就職活動で評価されるような世の中であれば自然と大学の質は向上します。
高学歴でなければ「良い仕事」に巡り会えないのですから、受験戦争に拍車が掛かり人々は必死に勉強するでしょう。
高学歴でなくとも大学での成績が選考に考慮されると多少は学問や研究に向き合う意欲の向上が期待できるのですが。
ですが、実際の就職活動では大学歴や成績は選考に大きな影響を与えません。
大学による恩恵を享受できなかった人々は叫ぶでしょう。
「Fラン大学に行く意味は無い」
このように。
そもそも、新卒採用について考える知能があれば、理解できるはずです。
学術的素養が就職に関連していると考えている時点で頭が悪いのです。

著者は、学歴コンプレックの人々が主張するデマを否定しつつ、そのデマが実現することを理想としています。
大卒であれば、大学で習得した能力や技術、ポテンシャルを活かすことの利益で待遇差(高卒との待遇差)を設けているように思えますが、現状の新卒採用では正反対の人材を雇用しています。
ですから、学生は能力や技術を修得(大学で良い成績を残さなくとも就職できるし留年もしない)する必要がないことから、大学教育は衰退するのです。
「必要がない」ことは「誰もしない」ように、「大学」に「進学」することが「ゴール」である日本の大学制度により、他国に比べて学問や研究分野で劣勢を強いられています。
これらの背景(学生が学問や研究に励まない)から、企業や会社(就活市場)が学生に求めるものが、大学(講義や教育の質)の教育で培われる知的な成果物ではない故に、実質的に大学の銘柄を重要視していない現状は理解できると思います。
とすると、大学に通いながら(卒業生も含む)も就職に失敗し、既存の制度を非難(Fラン大学は意味がないと主張する者)する彼らは、自己の無能さを認めたくない余り、問題の矛先を他者(制度)に擦りつけ「逃避」する人物であると推察できます。
自己の心情に「妥協点」を設けて「許容」と「攻撃」を判別する条件として「学歴」で境界線を引いているのでしょう。
高学歴でなければ意味がない(Fランから就職は困難)と大学教育を評価することで、他者と異なる自己の立場(東大生とFラン大学生等)を、環境が原因だと位置付けることで安堵できます。
これは、低学歴者(大学に進学出来なかった)も同様です。
高学歴は社会で意味がある又は大学に通う意味はあると「許容」することで、自己と比較対象たる他者との「妥協点」を作ります。
待遇差や所得差が発生している現状の不満の矛先に「境界線」を定めて「意味がある高学歴」と「意味がないFラン大学」と思い込むことで「許容」と「攻撃」を使い分けているのです。
著者は、Fラン大学の存在が、日本を陥れる要因(可能性)の一つであると警鐘を鳴らしつつも、これを口実に自己保身(精神的な)と「自尊心」を保つために、自身の責任を転嫁する人々が広めるデマを払拭するために執筆しました。

「攻撃」を適度に行い「心のバランス」を取っています。
どの生物も「支配するか」「支配されるか」の二択です。その生物の生涯において「支配される」状態が続くことはありません。どんなに弱い生き物でも「支配する」状態は存在します。でなければ生存できません。支配と支配される構造は立場を入れ替えて交互に循環するのです。人間の心も同じです。

大学不要論(Fラン大学)は大学制度を主体とした問題提起です。
そのため、個々の学生が抱く「大学の意義」とは別問題になります。
あくまで、議論の主体は制度なのですから、それを活用する学生の将来設計とは無関係にあるべきです。
個々の学生が「大学に通う意味」を尋ねているのならば、その学生が求めている意味を返答するば良いのです。
ほとんどの学生は就職のために大学に通います。
ですから、待遇や所得から大学進学が意義あるものと伝えましょう。

著者は少なからず学歴による不当な差別を経験又は見たこともありません。世間の評価に関しても「君はFラン大学卒だからね」なんて知能指数が著しく低い会話を聞いたこともされたこともありません。
ハッキリと言います。
世間がFラン大学を非難しているのではなく、周囲の人々が貴方を非難する材料としてFラン大学を用いているだけです。
東大生でも仕事が出来なければ「東大生なのに仕事ができない」と言われます。それと同じです。貴方が無能故に「やはりFラン大学だから仕事ができない」と評価されるだけです。結局のところ、Fラン大学が諸悪の根源なのではなく、自己が原因によるものです。さらに、その自己の原因を他者に転嫁して問題を先送りするような人物なのですから、仕事が出来ないのは当然です。
Fラン大学の評判や就職に関する弊害を拡大させている根幹は貴方であることを自覚しましょう。

・専門学校に通う頭が悪い若者達

世の中には理解不能な行動をする人々が存在します。
専門学校に通う若者、まさに理解不能です
インターネットを観覧していると「大学よりも専門学校」「Fランに進学するよりも専門学校」このような情報が目を覆います。
結論から述べると専門学校は大卒資格に勝る価値はありません。
専門学校で技能や能力を得ても自身の待遇や所得に影響しなくては意味がないのですから、無難に大学に進学すべきです。
また、就業機械やリスクヘッジの観点からも専門学校は勧められません。

もちろん、通う意味がある専門学校も存在します。
調理師免許や美容師免許等の資格を取得できるのであれば雇用で困ることはありません。
本人が「やはり辞めた(飽きた)」と方向転換しない限りは問題ないでしょう。
ですから、資格の取得又は就職が前提且つ自身の目標や夢を叶えるために専門学校に通うのであれば有意義な選択です。さらに、専門学校では、企業や会社と連携していることから大卒の新卒採用に比べて就職の難易度は比較的低いと言えます。
所得や待遇、リスクヘッジを踏まえると大学を卒業するべきですが、他に求める何か(将来の夢や希望)があるのであれば専門学校に通う選択肢も尊重できます。
著者は専門学校叩きをしたいのではなく、所得や待遇に論点を絞った故の結論です。
人間の価値が資本に換算される経済とは裏腹に、著者は個人の幸福こそが人生の「徳」であると考えています。
世の中では金持ちが偉いとする風潮が未だにありますが、そんなことはありません。
美容師になりたい。調理師になりたい。
素晴らしいことです。
著者は趣味でラーメン屋巡りをしているのですが、個人経営の店舗等が困窮している様子を幾度もなく目にしています。
その経営が厳しい店主の給金は著者の収入に劣るはずです。
だから、その店主は著者の価値よりも劣るのですか?
経済的には劣ると言えます。
しかし、彼が作るラーメンが著者を含めた多くの人々に喜びと感動を与えている事実には、数値(紙幣)では表せない「力」があります。
日頃から利用する飲食店、安くて美味しいお料理を当たり前に頂ける環境の裏には、様々な人々の努力や犠牲で成り立っているのです。
本当に頭が上がりません。
ですから、金持ちが偉いなんて幻想は間違いです。
給金が安くとも「自分がやりたい仕事」や「誰かの支えになる仕事」これらを成す過程に「専門学校」があるのであれば通いましょう。

著者が問題視している専門学校とは、才能や個性の存在を前提として技能を学ぶ学校です。

YouTuber育成学校
プロゲーマー専門学校
イラスト専門学校

これら、クリエイターを育成する専門学校に通う人物は頭が非常に悪いのでしょう。
仕事や学校と両立しているのであれば構いませんが、人生の岐路である高校卒業後の進路として、このような専門学校に通う選択をしてしまう思考回路が謎です。
クリエイターを育成する専門学校に通う意味が薄い理由は大きく分けて二つです。
まず、専門学校でなくとも欲している技能や能力が培えることが挙げられます。
イラストであれば習い事、動画編集(YouTuber)であればアルバイト、探せば幾らでもスキルを磨ける環境は見つかるはずです。
著者が大学を勧める理由として、自由の時間の確保が容易になると説明しました。国立又は難関大の理系を除いて大学生は基本的に「暇」です。
そのため、専門学校の学生に出来ることは大学生にも出来るのです。
しかし、大学を卒業することで得られる社会的な評価を専門学校の学生が得ることは厳しいでしょう。さらに、優秀又は才能がある人物は環境問わずして成功しますから、大学と専門学校で学生に与えられる人的資本(大学と専門学校はどちらも興味がある物事に時間を費やす環境が整っている)に相違はないことからも、以後の進路で手札(リスクヘッジ)に長ける無難な進学又は就職(高校三年次前提)にメリットがあることは明白です。

専門学校を勧めない二つ目の理由は、雇用(就職)に対する不確定要素が挙げられます。

いやいや、夢はクリエイターなんだから成功するかどうかは初めから賭けだよ

専門学校に通うことに意味を見出しているような人物は自己の選択を「賭け」(ハイリスク・ハイリターン)だと思い込みたいのでしょう。
現実を逃避する口実に「賭け」を持ち出している貴方は頭が悪いのだと思います。
もちろん、世の中には自己の人生を「賭け」なければ成し遂げられない到達点も存在します。
これには、スポーツ選手などが該当します。
それでは何故、自己の生涯を捧げてまでスポーツに身を投じるのでしょうか。
答えは、その「価値」があるからです。
スポーツに「価値」があるのではありません。
人生を掛けて「真剣に」「本気で」向かい合ってきた「スポーツ」だからこそ「価値」を見出せるのです。
このような「スポーツ選手」は人生を「賭け」ています。
リスクヘッジはありません。
大学に通いながら動画編集能力を磨き、クリエイターの進路が途絶えたとしても大卒資格で雇用を確保する、このような「舐めプ」はできません。
なぜか。
スポーツ選手は「命」を「全力」懸けなければ生き残れないからです。
それほどまでに「本気」で「真剣」にスポーツと向き合っているのです。
ですから、それしか「道」はありません。
されど、クリエイターを目指す若者が専門学校に通う意志にスポーツ選手のような強さを感じられないのはどうしてなのでしょう。
スポーツ選手は人生を「賭け」なければ決戦の舞台に立つことすら叶いません。
ですから、スポーツ選手の「賭け」とは「苦労」や「努力」さらに「楽しさ」まで、全てが含まれているのです。
しかし、専門学校の学生は、あえて「賭け」ることを「選択」しているのです。
大学に通う又は就職する、これらの進路では夢や希望は叶わないと心に言い聞かせて逃避する口実に「賭け」が必要だと暗示をかけるのですから困ったものです。
進学や就職を「犠牲」にしなければ目標が達成出来ないのでは無く、自己の都合に合わせて逃避する事柄を取捨選択しているに過ぎません。結局のところ、事実云々(合理性:最善の選択)を棚上げする口実に、他の選択を「犠牲」にしなければならないと思い込みたいのです。
これが、スポーツ選手との違いでしょう。
そもそも、逃避の心理が存在しなくとも、クリエイターが規格化(専門学校等)された教育課程から育成されると考えているのであれば感性を疑います。
本当に「賭け」(専門学校に通う)が目的を達成(YouTubeで収益化等)する過程で欠かせないと想定しているのであれば「頭が悪い」又は「業界を理解していない」これら、自己の過失故の思考でしょう。
前述したように、大学に通いながらも専門的な知識や技能を習得する時間や機会はあります。なのに「賭け」を選択しなければならないと思い込んでいるとしたら何かしらの問題(以上で解説したような要因)があるはずです。
さらに、目的を達成するための過程(手段)に固執しているようでは物事は上手くいきません。
専門学校と大学進学等の岐路で自己に与えられる成長材料(志望するクリエイターになるための対策や勉強)に遜色ない(現在の大学生は暇故に専門学校の学生と同等な時間や労力を費やせる)のであれば「あえて」専門学校に通う意義は薄れるのです。
なのに、頭が悪い人物は「手段」である専門学校に、人生を「犠牲」にしてまで「賭け」ようと翻弄するのですから、目的の転換が行われていることに気づきません。
このように、クリエイターを育成する専門学校が「賭け」を学生に強要しなければならない仕組みも問題と言えます。
資格等の規格化された知識や技能を習得するのでは無いのですから、客観的な評価及び収入を齎す根底が不特定多数の承認から成り立つ職種であることに問題があるように思えます。
安定性や確実性を排斥した職種は必然的に「運」や「才能」が業界を牛耳る故に、規格化(受動的)された教育(専門学校)では、学生の目的たる収益(生活していく)の発生を実現する指導は不可能です。
そもそも「答え」がない(YouTuberなら:このような動画を投稿すれば絶対に伸びる等)のですから指導しようがありません。
このような、非認知能力の育成を前提とした学校では、各々のポテンシャルを数値化して評価する方法が乏しいことから将来に関する保障が脆弱である事実は明白であると言えます。
そのような「答え」がない仕事で稼ぐために、「答え」の存在を前提とした「学校」で知識を得ることに矛盾が生まれます。
たしかに、専門学校に通うと知識や技能は得られるかもしれません。ですが、知識や技能が稼ぎに直結するとは限りません。
そこが、クリエイターを育成する専門学校に通うことを薦めない理由です。
詳細は以下の図説を参考にお願いします。

ほとんどの学生はクリエイターになることが目的なのではなく、生計を立てることが目標です。仮にクリエイターの仕事を副業又は趣味の範疇に留めるとするのならば就業機会を犠牲にしてまで専門学校に通う意味はありません。とすると、生計(稼ぐ)を立てるための自己投資(専門学校に通い知識や技能を身に付ける)なのですから、上記の解説図より、不特定多数の承認(YouTubeであればリスナーや視聴者)が求められる経済活動(仕事:稼ぐ行為)と、専門学校で培われる知識や技能は、これらの仕事(クリエイター)に役立つ(専門学校では稼ぎ方は指導できない)とは言えません。

・教養部の廃止と数学導入論争

教養部の廃止について

教養部又は教養学部とは、学生に幅広い領域を総合的に学ばせようとする大学の講義形態を指します。
現在では、専攻する学部の領域とは異なる分野(教養)を学ぶことから、教養部は廃止されているのですが、これが、大学教育の衰退に拍車をかけたのだとする意見も見受けられます。
そもそも、なぜ教養を学ぶ必要があるのでしょうか。
法学部の学生が数学を、理学部の学生が政治を、このように他分野を学ぶのですから疑問も抱きます。
著者は「教養」については専門外ですので、東京工業大学の上田紀行教授の説明を参照下さい。

この「教養」は「リベラル・アーツ」とも呼ばれ、起源はギリシャ・ローマ時代まで遡るのです。(詳しい説明は以下の書籍から)
「リベラル・アーツ」について興味がある読者は池上彰氏の「おとなの教養」を薦めます。

結局、何を主張したいの?

著者が主張とは、社会のための「大学」では「学問」の領域が侵害される恐れがあると伝えたいのです。
確かに、教養学部を導入することで、社会問題を解決する能力が培われたり、幅広い視野から仕事やビジネスに貢献できます。
ですが、それは「社会が求める人材」です。
大学の研究や学問は普遍的で社会から独立した存在でなければなりません。でなければ、大学は研究機関ではなく教育機関として機能します。

大学の学問や研究は「答え」が無いからこそ意義があるのですが、社会に適応(求められる)する人物の育成を目的として、その過程(手段)に教養を学ばせるのであれば必然的に「答え」が生まれます。
リベラル・アーツの語源によると「人間を自由にする技」(手段)が「教養」だそうです。
されど、社会の評価に拘束された大学が需要に応じた人物を育成する過程で教養を導入するのであれば自由人とは真逆のコンセプトです。
ですので「教養」を学ぶことで、想定される人材が育成されることはないと考えます。
仕事やビジネスで活用できる知識は教養により蓄積されます。
ですから「教養」が問題解決能力を得るための最適な手法だと誤認されるのです。
義務教育で習う「国語」「算数」「理科」「社会」これらは知識として社会で役に立ちます。
「数学」であれば、建築やITで間違いなく活用できますよね。
しかし、仕事と直結する知識(勉強や教養)と、根本たる思考に影響を及ぼす能力(教養を学ぶことで身につくと想定される能力)は全く異なる性質を持ちます。(図を参考に)
「教養」の修得で期待される成果物は「非認知能力」(根本たる思考)です。
なぜなら、「教養」を学ぶ意義は「生き方」に付随する目的を掲げているからです。
「生き方」は数値化して評価を定めることはできません。
社会において知識(学力)が活用(数学は建築で必要)される場面では「認知能力」が求められます。
「教養」を身に付けることが「非認知能力」の育成に繋がるのでしょうか。

残念ながら、「教養」により非認知能力が養われたのではなく、「知識」が齎した功績(数学は建築で間違いなく必要)が社会的な評価に繋がっているのです。
「認知能力」に長けている人物が成果や結果を残していると、その周囲の人間は「仕事」ができるのだから「非認知能力」も優れているものだと錯覚します。
勉強が得意な人物が賢いとは限りませんよね。
学校の成績が良い人物に対して「あの子は勉強が出来るのだから頭が良いんだな」と捉える現象と似ています。
教養も同じです。
「人間を自由にする技」が「教養」だとすると、与えられた「自由」を「活用」するためには「賢さ」が必要です。
ならば、教養を学ぶ過程で「賢さ」の成長が期待できないのであれば、その意義は破綻します。
そのため、教養を学ぶことによる影響(成果)が「賢さ」(根本たる思考)と起因しなければならず、現状ではその関連性が不明確と言えます。

著者は考えました。
「教養」は無意味なのかと。
もちろん「知識」を得ることは重要です。
しかし、「教養」が目指す目的を実現できそうにはありません。
そこで「教養」について振り返りました。
「教養」を学ぶ意味とは。
それは、自由な生き方、自己を解放するための手段、答えがない問題への対処、これらは正しく「学問」と言えるのではないのでしょうか。
学問は「自由」であるべきとする主張と「教養」を学ぶ意義は結果的に類似した効果を期待できます。

ならば、問題点は「教養」ではなく「教養」を学ばせる制度が悪循環の要因だと思います。
「教養」が「教育」や「勉強」と遜色ない故に「義務教育(学校教育)」以上の成果(知識の蓄積)を期待できないのであれば、大学は研究や学問を教養として学生に学修させれば良いのです。
しかし、現在の大学教育で「教養」を導入しようとすると、どうしても「勉強」的な特色が強くなります。
例えば「数学」を「教養」として導入するとしましょう。
すると「数学」の「学問領域」を修得するためには「教養数学」や「基礎数学」の訓練が必須となります。
「教養数学」や「基礎数学」を学ばずに「学問領域」である「ルベーグ積分論」「位相幾何学」「複素解析学」これらを修得することは不可能でしょう。
そのため、文学部の学生が「数学」を「教養」として学ぶのであれば「教養数学」や「基礎数学」である「勉強」を必修として学ばなければならないのです。
他にも「理学部」の学生が「法学」を「教養」として学ぼうとするのであれば「勉強」が必要となります。
「法学」を修得するためには「法律」の「勉強」が不可欠なのですから、まずは「六法全書」の読み方からです。
法律用語は非常に難解である故に、言葉一つで意味が変わります。
日々の生活では使い分けない「許可」と「同意」、「推定」と「みなす」、「無効」と「取り消し」など、これらは異なる意味を持ちます。紹介した用語は一部に過ぎないのですが、六法全書の条文を正しく理解するだけでも半年以上の学修が必要になるのです。これらは、法律の勉強ですから法学ではありません。このような法律に関する基礎知識を身に付けなければ法学を学べないのですから、数学にせよ、教養として異なる分野の学問を修得させるためには「勉強」強いては莫大な時間が必要になるのです。
現在の大学論争では「教養」を導入する活発的な取り組みとは反対に、時間を短縮する弊害として勉強止まりの講義が実施されることが予想されます。
これが、課題なのでしょう。
専攻と異なる分野を学ばせるのですから、大学や学生は「教養」を「おまけ」として認識します。
「おまけ」なのですから、専攻する学部の学修よりも「教養」に費やす時間は減少、すると、学生は単位を取得する目的に意識を割かれます。
さらに、学生の単位に対する意識が学問を学ぶ意欲を上回ると大学の講義は破綻します。

ですから「教養」を大学で導入するのならば「学問」と同等か、それ以上の「クオリティ」を確保しなければならないのです。
そうすると、学生のみならず大学は、専門的に修得する学問又は研究領域(メインの学部)に費やす時間や資金を、教養にも充当させる必要が生じることで負担が倍加するでしょう。

数学導入論争

大学の学部学科問わず数学の講義をカリキュラムに導入しようとする話題がありました。
著者は覚えていないのですが…。
数学を全ての学部や学科に導入する目的は基礎能力の底上げです。
さらに、数学を学ぶことで学問の修得に欠かせない能力が得られるのだとか。

著者は数学を学部問わず導入することには反対です。

数学を学ぶことで「批判的思考」「反省的思考」「懐疑的思考」「論理的思考(ロジカルシンキング)」などの非認知能力が養われるとする考え方には疑問を抱いています。
前提として、思考の基礎を固めるためには「学問」を学ぶ必要があります。
上記で挙げた思考が培われると仮定しても、他学部の学生に「数学」の「学問領域」を修得させることは相当な負担です。
ですから、数学の「勉強」を講義で実施する範囲が関の山でしょう。
これでは、意味がありません。
もちろん、学問の試行錯誤が非認知能力に与える影響も僅かでしょう。
「数学」を学ぶことで「論理的思考」(以下略)が得られるのだとする主張は暴論にも聞こえます。
「数学」を「学問」として学ぶのであれば、知的分野で「主体性」や「自主性」を発揮する人材が育成されることが期待されます。
しかし、これは「数学」のみならず「学問」全般に共通して言えるのです。
数ある科目から、あえて「数学」の導入を検討しているのですから、然るべき効果を期待できるのでしょう。
その効果とは、前述している「論理的思考能力」(以下略)が「数学」により養われる成果を示します。
では、本当に数学を学ぶことで「論理的思考能力」が養われるのでしょうか。
これらを検証するためには、数学を学問の域まで修得した集団(受講群)と、数学の修得が未熟な集団(非受講群)にカテゴリを分類(比較対象として設定)し、両集団に論理的な思考が求められる問題や課題を課して作業効率の統計を導き出す必要があります。
さらに、論理的な思考が求められる問題や課題の定義が曖昧であることを考慮すると、検証に意味はありません。
これらの検証(数学が得意な学生は論理的か等の実験)では、課題や問題を「数学的な思考」を用いる試験に限定(知能検査や数的処理の問題を解かせる)することが一般的ですので、実際に被験者が日常生活又は仕事等で論理的な思考に基づき活動(数学が日々の思考に影響しているのか)しているかを観測するには至りません。結局のところは、論理的思考能力の有無を計測する手段に数学を用いているのですから、統計の結果に偏り(数学が得意な人物は論理的)が生じる現象は必然だと言えます。

数学の修得で論理的な思考が生まれるのか?
[現在の検証方法]
数学が苦手な集団
課題や問題:数学(高得点であれば論理的)
 →解けなくて当然、故に論理的ではない
数学が得意な集団
課題や問題:数学(高得点であれば論理的)
→解けて当然、故に論理的

残念ながら、学問の域に達した数学を修得することで論理的な思考能力が培われることを証明又は否定することはできません。サンプル群の収集と論理的の定義を定める作業が困難ですので。
でしたら、「学問」ではなく「勉強」としての「数学」は、論理的な能力を養う手段として最適なのでしょうか?
世間では、数学の勉強により、社会で求められる論理的な思考能力が育まれると言われています。これは、数学の知識を凡ゆる物事に応用(当てはめる)できる汎用性が評価されているからでしょう。

大学の講義で数学を導入するのであれば、教育のための手段(勉強)ではなく、社会や学問に影響を及ぼす存在でなければ学ぶ意義は薄れます。されど、手段(勉強)である数学の存在が枠組みを超えて多大な影響(論理的思考能力が得られる=仕事で活躍)を及ぼすのであれば、学校教育の延長として大学に数学を導入する政策も肯定しなければなりません。
著者は考えました。
数学が得意であれば、仕事や日々の生活で、賢い判断に基づいた行動ができると。
行為や行動は判断を繁栄(行為や行動は意思決定に基づき)し、それを掌る思考の根幹には論理性が備わっています。そのため、ある人物の行為や行動を観測することで、思考のプロセス(論理的かどうか)を解読できると仮定しました。
つまり、賢い行動や行為を選択できる人物は論理的且つ数学が得意であるのならば、全ての条件を矛盾なく満たしている故に数学の学習で培われる能力が社会においても実用的であると証明できます。もちろん、数学が苦手で論理的な人物、数学が得意で非論理的な人物、これら例外的な存在はどうしても発生します。ですから「数学が得意な受講群」と「数学が苦手な非受講群」の「行為や行動」の違いを比較して、有意差が認められるのであれば思考の一部を構成する論理性(行為や行動は思考に基づくことを前提)が、数学の影響を受けたとして、帰無仮説の棄却は(数学が勉強以外の思考[仕事や日々の生活]に与える効果はある)されます。
されど、非受講群と比較して、数学が得意な人物が賢い行為や行動を示さなければ、数学を学ぶことで論理的な能力が培われたとする仮説は崩壊するのです。
これらを検証するためには、どの行為や行動が論理的な思考と結び付くかを定義しなければならず、統計を導き出すことに現実味はありません。
そのため、著者独自の観点から、賢い行為や行動を定義します。
著者はブログで、大学生の「就職活動」について記事を作成しているのですが、そこでは就活に失敗(賢い選択をしない)する学生の特徴について解説しています。
著者の経験や持論故に客観的な内容が示された記事(数値や統計に基づく記事ではない)では御座いませんが、参考までに参照ください。

勉強が得意でも頭が悪い行動をする人々の例

著者が属していた大学は公務員志望の学生が多く在籍していました。
そのため、公務員試験で重要となる数的処理(数学)の対策を大学を挙げて実施していたのですが、これらの知識を学んだ学生が必ずしも「賢い選択(行為や行動)」)をするとは言えない現状を目の当たりにしてきました(上記の記事を参照してください)。
驚くべきことに、以上の記事で紹介した事柄(誤った選択をする人々、疑問を持てない人々、単純な原理も理解できない人々)は、どれも勉強の得意不得意に相関関係はありません。
勉強(数学含む)が得意な学生も苦手な学生も不規則的に就職活動で自己の愚かな行動により苦しむのです。
これらを踏まえると、数学を含む勉強が、行為や行動に影響を及ぼす「論理性」を培うのだとする主張には限界があるように感じられます。
ですから、大学で勉強としての数学を導入する政策には反対なのです。
さらに、心理学では「知能」(行為や行動の基となる)と「能力」(学力など)の関係性を以下のように理論化しています。
知能とは一般的に「知的行動を行うための基となる総体的な能力」を指します。
もちろん「論理的な思考能力」など、凡ゆる知的活動は「知能」に含まれています。
本記事で紹介しているように、各々の能力(数学を解く能力と論理的な思考など)が相互に影響する構造は、心理学における知能指数の概念と似ています。
米国の心理学者である「ターマン」は、「スタンフォード・ビネー知能検査」と呼ばれる従来の「IQ(知能指数)」の概念を導入しました。
それにより、二十世紀では「IQ(知能指数)」があたかも知的能力の全てを表しているかのような風潮が蔓延したのです。
これによる影響は現代でも顕在しています。
「IQ」が高いから賢い、その他にも「数学」が得意だから賢いなど、認知される一つの能力が優れている(数学の成績が良い、知能検査で高IQ)ことから、「知能」全般が秀でていると錯覚する現象が発生しているのです。
実際には、人間の知能構造は複雑であることから、単一である因子(数学が得意)が及ぼす影響(知能が高くなる等)を推察することは困難です。
米国の心理学者「サーストン」は、知能構造を「比較的独立した複数の因子から」成り立つとする「多因子説」を提唱、その後、「ギルフォード」が知能の構造を「三次元的な立方構造」であると概念化しました。
さらに、知能指数が人間の知的能力を表す指標であるとする風潮に異論を唱えた「ガードナー」や「スタンバーグ」は、「多重知能理論」、「三頭理論」を展開して、知能構造は単一的な項目(IQなど)で測ることが困難である旨を理論化したのです。
そして、現在の心理学では、知能指数による認知能力(IQ検査の結果)は知能を構成する一部の領域であるとする考え方に落ち着きました。
つまり、知能指数をはじめとした、単一的な能力(数学など)が知能又は他の能力(論理的な思考など)に与える影響は「よく分からない」と言うことです。
知能指数の優劣は、知的能力全般(IQ=知能)を測る指標ではありせん。
ですが、共に関係性が無い訳ではなく、これらの能力が相互に補完し合う領域が複雑であるために具体的な分析が難しいのです。
「数学」の能力が、論理的な知性を構成する役割を果たす領域は限定されるのですが、その影響範囲が未知数である原理と知能指数の考え方は同じであると言えます。
さらに、知的分野における能力に限らず、人間の行動や性格を左右させる因子についても単一的な要素のみに委ねられているのではありません。

最後に、数学と論理的思考能力の関連性はさておき、社会で役に立つ(仕事など)ことは確かです。
日常生活や仕事では「数学的な思考」(論理的な思考も数学的な思考の一つ)がとても重要だと言えます。
そのため、著者が懐疑的に問題提起する対象は「学校で学ぶ数学の意義」であり、日常生活や仕事で求められる「数学的な思考」を批判しているのではありません。
間違いなく「数学的な思考」は、生きていく過程で「役に立つ」でしょう。
しかし、問題となるのが「学校で学ぶ数学(学力)」と「数学的な思考(日常生活や仕事など社会で生きるための能力)」の結び付きが曖昧であることです。
事実、学力が高い人物が「賢い(知的)」であるとは限りませんよね。
もしも、数学を学ぶことで得られる「批判的思考」「反省的思考」「懐疑的思考」「論理的思考」これら「数学的な思考」が「勉強」を通して身に付いたとすれば、「学力」が「高い」だけの「馬鹿」は消滅しているでしょう。
ですが、官僚制の逆機能が示すように、優秀とされる(学力が高い)官僚が権威主義(物事に疑問を持たない)に陥るのですから、「学力」が必ずしも「知能」を構築するのではないのです。
「学校で学ぶ数学」と「数学的な思考」の結び付きが曖昧でも、数学の重要性が薄れることはありません。
数学の知識は「直接」日常生活や仕事に影響を及ぼします。
「数学的な思考」を養うための「数学」ではありません。
「数学」は「数学」の問題や課題を解決するために「役に立ち」ます。
世の中は「数学」で溢れているのですから「数学」の学びは「直接」日常生活や仕事に活用できるのです。
学問や勉強の領域問わず数学を学ぶ必要性は充分にあると言えます。

数学分野は「役に立つ」領域が大きい ※図説における他の科目の重なり度合いは適当です

・学問の魅力

①学問の魅力は自由であること

大学の講義と、高校までの授業、これには可視化された違いがあります。
それは、名称です。
国語、数学、理科、社会、これらは高校までの教育で扱う授業の名称です。
ですが、大学の講義では、国語、数学、理科、社会、などの呼び方はしません。
基本的には「〇〇学」「〇〇論」と、講義の名称が付いています。
前者は学問の略称故に高校までの授業(勉強)とは異なる性質を持っています。
仮に、義務教育で法律分野を学ぼうとすると科目の名称は「法律」です。しかし、大学では、学問を修得する性質から「法学」なのです。
「〇〇論」すなわち「論」とは、「ある事象に対し順序立てられた思考・意見・言説」(wiki参照)を指し、学問と同じく自由を保障された領域であると位置付けられます。
何故なら「順序立てられた思考・意見・言説」は、肯定、否定、発見、の対象となるからです。
勉強には答えがあります。答えが無ければ勉強は成立しません。そのため、定められた結論を導く出す過程に、肯定、否定、発見、が含まれていても、答えが存在することで自然と画一化されます(答えを導き出す過程に最適解が生まれる)。さらに、過程に思考の余地が残されていても、結論(答え)は、否定、発見、の主体ではありません。
ですから、学校教育(高校までの)の勉強は不自由なのです。
しかし、大学の講義では「論」の価値観を尊重します。
順序立てるとは論理であり、結論を主張する道筋です。
自宅から最寄り駅に向かう道筋を想像してみて下さい。
自宅からバスを経由して駅に向かう道筋、はたまた、日頃乗車するためのバス停を迂回してコンビニに立ち寄り駅に向かう道筋、工事で新しく開通した道路を利用して駅に向かう道筋、さらに、目的地である駅を変更しても構いません。
結論(目的地)である駅又は変更した場所を辿る道筋(論理)に整合性が担保されていれば、既存の定義(バスを経由して駅に向かう道筋)を、踏襲又は否定、発見、しても咎められはしません。
しかし、勉強では結論に至る道筋が限定され、答えに関しては思考の余地すら残されていないのですから面白みがありません。
著者は幼い頃から規則的な行動が苦手でした。学校に通う経路でさえも、なるべく同じルートを辿らないように工夫していた記憶があります。同じ道筋を辿るルーチンワークは退屈ですから。
道筋である順序は、自己の意思で覆すことも、入れ替えることも、消し去ることも、その作用の存在を前提としています。
このように、「〇〇論」は「順序立てられた思考・意見・言説」を保障し、普遍的な「答え」を排斥する意味があるのです。
論理は壊すことも守ることも自由故に、楽しさがあります。

【まとめ】

論理には順序が存在します。順序が無ければ結論に至る過程を証明できません。もしも、答えである結論に普遍性が備わっているのならば過程(結論に至る過程)を証明するための順序は役割を失います(答えがあれば主張の正当性を証明する必要性が薄れる)。それが、勉強です。
そのため、論理や順序は、否定や批判の存在を想定していなければなりません。
答えである結論を主張するための手続きが順序や論理なのですから、その段階では答えに普遍性は無く、仮説(道筋)としての役割(論理や順序は仮説的な役割)が与えられるからです。ですから、普遍的な答えではない仮説(道筋)には、異なる仮説(道筋)で対抗(批判や発見)する領域が確保されています。これが、自由の所以なのです。


[大学の試験は自由を侵害する存在]
学問の魅力は自由な性質にあります。
しかし、大学の試験では学生の答案に点数を付けなければならず、そのため、基準として学問を規格化しなければなりません。
著者は大学時代に、死刑制度に関する論述で担当教諭が支持する学説とは異なる記述をしました。その結果は、成績評価がB判定、このような問題に対処(「担当教諭の意見=基準」このような大学の風潮)するためには、どのような改革が必要なのでしょうか。

②学問の魅力は自己の正当化

著者は学問の定義を「大学の講義」に限定しているのではありません。自由な性質である思考の領域が確保されていれば、その学修は学問であると言えます。
例えば、自己の主張を正当化するために論理武装することも学問の一種です。
著者は、幼少期から学校が大っ嫌いでした。
理由は様々ですが、特に対価を支払い怒られる構造に腹が立ちましたし、権威主義的な側面から服従を強いられる教育制度には、疑問を抱いていました。
子供の頃は、学校の教員に対して「市場における商品と同じく規格化を促す教育は個々の人権(個性)を否定するものである」と、主張を展開して反感を持たれていました。
自己の考えや思考を正当化又は、整合性を与えるための論理や知識があれば、弁証法の如く教員に反感を持たれずにコミュニケーションが取れたかもしれません。
ですから、自己の意見を主張(自己を正当化)するために、学問は欠かせないのです。
上記の例えを挙げるならば、学校教育を避難する材料として、マックス・ヴェーバーやロバート・キング・マートン等の言葉を引用すれば完璧だったでしょう。
さらに、学問は自己の意見を正当化する存在としても心強い仲間になります。
著者は、学校教育に馴染むような人物は頭が悪いと幼少期から考えていたのですが、これらを研究した結果として、官僚制の逆機能に辿り着きました。
著者の感情として「私の考えていた内容を、過去の人物であるマートン(官僚制の逆機能を提唱した人物)が明文化していたんだ」と思うと、ちょっぴり嬉しくなります。
このような、自己の意見に整合性を与える確認作業としての学問の面白みは、自由な領域が無ければ成り立ちません。
確認作業故に答えがあるのだから学問ではないと避難されそうですが、数ある結論から「あえて」その意見を主張する過程を踏まえると自由が前提になければ思考(自己の意見)の余地は生まれないのです。
自己の意見を結論付ける手段たる論理や順序は画一化(一つではなく)されず、そのため、マートンを引用せずにマキャヴェッリの君主論を根拠に添える(学校教育を否定するための根拠)ことも可能ですし、さらに、これらを既存の構造(学校教育を肯定)を保守するための材料にもできます。 このような、不安定で自由な学問だからこそ自己を正当化する手段成り得るのです。