大人が公言する勉強の意味(大人の事情)
著者は綺麗事が大っ嫌いです。
本記事では、大人の事情を排斥して情報を発信していきます。
勉強をする意味に対する懐疑、これは勉強が苦手な子供が抱く疑問です。
もしも、勉強に意味が無ければ苦手でも問題が無いと安堵したい心情でしょう。
実際には勉強が嫌いなのではなく、怒られたり、成績で優劣を付けられたり、このような教育が無意味であれば、勉強が苦手な生徒は自己の存在を正当化できます。
ですから、勉強が苦手な子供たちは「理由」を探るのです。
そして、その「理由」が「無意味」であることに探究の成果を期待しています。
勉強が「無意味」であれば、無駄な勉強に取り組む周囲の人々を軽蔑できますから。
ここからが大人の事情です。
親や先生、貴方の周りの人々は勉強を強要します。
なぜでしょう。
答えはシンプルです。
将来のためです。
学校の成績、更には学歴、これらの序列と所得に関連性があることは明白です。故に、親や先生は子供の将来を心配して勉強を強要するのです。
では、勉強の目的は将来のためでしょうか。
「勉強をする意味」で検索しましょう。
どのような検索結果が表示されましたか?
生きる力を身につけるため 視野を広げるため 人生を豊かにする 自由な考え方ができる 複雑な考え方ができる
結論から述べます。
これら全部「嘘」です。
厳密には「本当」であることを「証明」することが不可能ですから「嘘」であるとも断言できません。
つまり「否定」や「肯定」ができないのです。
そもそも「勉強」が「得意」な人物が、必ずしも「賢い」(勉強をする意味の語群)とは限りませんよね。
ですから、社会で必要とされる能力は「学力」や「偏差値」では測れません。
そう言うことです。
しかし、大人は言います。
勉強をすると「〇〇」であると。
これが大人の事情です。
前述したように、子供の勉強に対する意欲を高める目的で親や先生は説得を試みます。
子供が勉強の理由を尋ねてきたら、それらしい答えで「論破」すれば良いのです。
子供の知性を上回る「ロジック」で「疑問」を上書きすれば「勉強」を「意味」ある行為として認めざるを得ないのですから。
大人は「勉強が如何に素晴らしいものであるか」これを証明するために凡ゆる手段を用います。
そこで登場する武器が、上記(生きる力…視野を広げる…人生を豊か…)のような抽象化された概念です。
子供は社会を知りません。ですから、上記のような概念を否定することは不可能です。「生きる力を身につけるため」に勉強が必要だと、親や先生から伝えられたとしましょう。
貴方は、どのように否定しますか?
まず、否定するためには「生きる力」が「勉強」により育まれない(生きる力=勉強ではない)とする根拠が必要です。
となると、前提条件として「勉強の習得」更には、以後の社会人経験が必須となります。
勉強をする意味の主張を抽象化する理由は、現段階で子供には立証不可能(否定も肯定もできない)である故に、将来的な観測に委ねられている事情が望ましいからです。
さらに、大人である親や先生は将来的な観測を済ませている存在であると、子供は認識します。
ですから、大人は「勉強をする意味」を主張する際の理由として、子供が扱えない問題に昇華して、その根拠を自己のみに帰属させようとするのです。
結果的に子供は、大人のロジックに迎合して勉強する意味と必要性を認めます。
不満そうな大人に尋ねます。
「〇〇」が勉強で培われた証明をしてください。
「〇〇」とは以下の例文です。
生きる力を身につけるため 視野を広げるため 人生を豊かにする 自由な考え方ができる 複雑な考え方ができる
証明できますか?
不可能ですよね。
数学の勉強をすると数学の能力が培われるとするような、直接的な影響は証明できるでしょう。
しかし、数学の勉強をすると「長生き」するなどの曖昧な事象は証明が困難です。
勉強も同じです。
勉強をすることで「〇〇」が培われたとする根拠は何一つありません。
「視野を広げるため」に勉強をするのならば、勉強をしなければ視野は狭まるのでしょうか。(視野と将来の選択肢は別の意味)
視野の広さとは、物事を客観視する作業です。ならば、勉強の成果と客観視する能力の因果関係を証明しなければなりません。
義務教育で養われる認知能力(学力や偏差値)でとは、数値化できる評価項目を指します。
偏差値、IQ、学力、テストの点数、これらの優劣は数値化された項目故に一目瞭然です。
基本的に、義務教育では認知能力が養われます。
数値化できる項目ですから「目標」を定めることが容易であり、指導方針などの「道筋」を明確化できます。
ですから、学校教育などの子供を「規格化」する環境では、認知能力を伸ばすことで外部評価を透明化して教育を施すのです。
反対に非認知能力とは数値化が困難な事柄を指します。
人間同士のコミュニケーションなどが非認知能力に該当します。
そして、社会に出ると認知能力よりも非認知能力が重要視されることも。
一般的に非認知能力は、幼少期から学童期の環境や教育で培われるとされていますが、これらは「性格又は人格的な要素」が多く含まれているため、改善や能力向上の余地はあれど、生得的な遺伝子の要素が占める(性質を左右する)比率が高いことも事実です。
そのため、教育的な作用である「勉強」の効果が認知能力のみならず非認知能力を高める手段として機能する信憑性は保障されません。
あくまで、義務教育とは「勉強」を始めとした「答え」がある課題や問題を解決させることで、透明性がある成果や結果(認知能力)を子供の成長に反映させる構造です。
洗脳教育と揶揄されている現状の制度ですが、子供の思考を完全に掌握できる効力はなく、認知能力を高める教育的作用の影響が生得的な要素(遺伝子)に優ることは考えられません。
教育現場の目的及び手段とは、社会で必要とされる人材を確保するための教育的なアプローチです。
現在の日本では競争社会や資本主義が「能力主義」を煽り「非認知能力」を求めます。
義務教育の課題や問題点を指摘するのであれば、学校制度で得られる認知能力は社会で求められる非認知能力とは異なる事柄にあります。
ですが、現状の社会システムでは「認知能力」と「非認知能力」で社会的な評価基準が揺らいでいます。勉強が得意なことで採用される企業、はたまた学歴や成績を考慮せずに人物本来のポテンシャルを見極める企業、どちらも存在します。
とすれば、既存の教育システム及び社会システムを踏襲してきた人物が「大人の事情」として、非認知能力と認知能力の教育的な作用における境界線を曖昧にする原理は理解できます。
仕事や社会生活を営む上で非認知能力が認知能力を上回ることを認めてしまうと、その過程である義務教育での「努力」や「我慢」が無駄になりますから。
もちろん、認知能力である勉強(学力、成績、偏差値)が社会で「役に立つ」場面が存在することも確かです。
ですが、非認知能力が容認される社会(このような社会を認めると)で、自分よりも「努力」や「我慢」をせずに「優れた」成果や結果、功績を残した人物の存在はプライドを傷つけます。
だから、非認知能力である「大人の事情」を、勉強する意味(認知能力)として捉えるのでしょう。