学校の勉強をする意味、学力と仕事能力が比例関係にないと暴かれた現在における勉強の意義とは

義務教育(高等教育)

勉強が非認知能力に及ぼす影響

勉強の影響(認知能力)が「〇〇」(大人の事情、非認知能力)に及んだとするのであれば、勉強をしないことで「〇〇」が衰えたことを同時に比較する必要があります。
これらを比較するためには、勉強をする自分、勉強をしない自分、それによる結果の影響を確かめなければなりません。
パラレルワールドの自分と意思疎通が出来るのであれば可能でしょう。
されど、一般的な地球人には厳しいと思います。
勉強をする理由として「〇〇」を主張する大人たち。
しかし、実際は「〇〇」を証明する手段は存在しないのです。
子供に勉強をさせるための「大人の事情」、それが「〇〇」です。
もちろん「否定」もできませんが。
現在でも「勉強」ができることが「頭の良さ」であると信じている人々が存在します。その因果関係を否定することも難しいのですが、大学で学生を観察していると不思議に感じる場面が多々あるのです。

勉強をする意味とは①

勉強をしなければならない理由とは、むしろ「する意味」が「分からない」からこそ、その行為が重要になるのです。
前述では、勉強が思考(「〇〇」)に及ぼす影響について証明できないと論じました。
ですが、これは勉強と思考の関連性を否定できない証拠でもあります。
勉強は「人生を豊かにする」とは断言できませんが、否定も不可能です。
子供たちは大人に尋ねます。
勉強する意味とは。
結論は「分からない」です。
勉強が「何に役立つのか」「必要なのか」「意味があるのか」これらの答えは、不明確で曖昧な概念しか持ち合わせていません。
だから「勉強はやる」のです。
勉強をすると「視野が広がる」、そんなことは分かりません。ですが、やらなければ視野が広がる確率は「0%」です。
「視野が広がる」内容に限らず、子供に勉強をさせるために用いられる主張のほとんどは証明が不可能なのです。ならば、その主張を否定することはできず、勉強が「役に立つ」かもしれない「余地」(確率)を残すためにも、「しなければ」ならないのです。

勉強が「役立に立つのか」「役に立たないか」これらは不明確です。しかし、勉強をしなければ「役に立つ」かもしれない可能性を潰します。※「人生を豊かにする」等の他の例文も同様です。
さらに、勉強は抽象化された概念を除き、直接的に「役に立つ」場合があります。
数学の勉強をすると「長生き」するなどの曖昧な事象は証明が困難です。しかし、数学の勉強をすると数学の能力が養われることは確かです。数学に限らず世の中では、学校の勉強が「直接」役に立つ場合もあるのです。

勉強をする意味とは②

勉強が出来ると大学入試に困りません。
偏差値が高い大学に入学すると就職活動で有利です。
ですから、勉強をする理由とは「将来のため」でしょう。
勉強による優劣で自身の価値を測られる教育システムに嫌悪感を抱く子供のために、大人は「勉強の意味」をスライドして教えます。
勉強をすると「〇〇」のためになると。
しかし、結局は大学受験や高校受験のための勉強であることには変わりません。
現在の日本では、学力や偏差値などの認知機能で人物を評価します。
既存の社会システムを活用するのであれば、その構造に適合しなければなりません。
結論として勉強の意義とは「勉強が必要(価値が高い)であると盲信する人々の社会で生きるために、その社会集団に認められる儀礼的な行為」であると言えます。
これら、社会集団に歓迎されるためには勉強が必須であり、また、自己がこの社会集団に帰属するべき資質や適性を備えているかは非常にその見極めが困難であるため、安易に勉強に依存した集団から逸脱する選択は薦めません。
生得的な才能や能力、これら非認知能力に長けている人物に人的資本の付与は必要ありません。
ですが、大抵の人間は凡人です。
認知能力と非認知能力、どちらも具備されていない状態であれば社会で活躍できません。
社会システムを活用する機能的な側面から勉強は重要であると言えるのです。

勉強をする意味とは③

勉強は万能な存在です。
なぜなら、勉強を活かせる領域が広いからです。
勉強とテレビゲームを比較しましょう。
「テレビゲームをすることで活かせる仕事の領域」と「勉強をすることで活かせる仕事の領域」どちらが広い範囲の領域を補えますか?
答えは勉強です。
勉強が仕事に活かせる領域を補填する手段として最適でしょう。
もちろん、ゲームであろうと、スポーツであろうと、仕事と無関係なことは一才存在しません。
どんな「物事」だろうと「存在」するのですから、そこには「仕事」があります。
ゲーム制作を仕事にしたいのであればゲームの知識は必要ですし、スポーツを仕事にするのであればスポーツの技能は必要です。
世の中には「喧嘩」が強いことから、それを職業にしている人物がいるくらいですから。
ですが、目標が無い「子供」には、やはり勉強をさせるべきです。
勉強と「仕事」は重なる領域が大きいですし、もしも、将来の仕事に活かせなくとも「入試」には役に立ちます。
仕事に活かせる領域が広いのですから、その範囲の選択肢も増え、且つ、勉強が仕事で応用できずとも、進学のためのツールとなる、まさに、一石二鳥。
勉強に変わる代替品は存在しないと思います。
勉強の知識や能力は直接、仕事の場面に活かせます。
著者は、ブログを書くことを本業にはしていません。しかし、義務教育で国語の勉強を真面目に取り組んでいたのならば、もう少しまともな文章になっていたはずです。

句読点の位置がおかしい!
接続詞の使い方‼︎
表現や文法がめちゃくちゃだ!

まあ、そういうことです(笑)
なので、将来の選択肢を広げるためには勉強が重要です。
勉強をすることで進路や就ける仕事の幅が広がるのですから、その意味では人生が豊かになると言えるのです。

勉強をする意味とは④

方法論としての勉強。
義務教育では、教育を施す手段として勉強が主な役割を担います。
学校で慣習を刷り込ませるためには「具体的」な「何か」が必要です。
「何か」がなければ「指導」することができませんから。
子供に努力を覚えさせる手段としての勉強、社会生活を身に付けさせる手段としての勉強、学ぶ力を身に付けさせるための勉強、などなど。

勉強する意味とは⑤

勉強とは無能(馬鹿)のために存在します。
能力や才能が無い人物は既存のシステムに依存しなければ生きていけません。
現在の日本では、勉強と挨拶さえ出来れば並大抵の人生を謳歌できます。
そのため、勉強が得意ならば、他に特出する才能や能力を持ち合わせていなくとも、社会から良好な評価を期待できるのです。
能力や才能を持っている人物は、勉強や既存のシステムに依存しなくとも成功します。
ですが、能力や才能を持たない人間が大多数なのですから、勉強をするに越したことはありません。
さらに、生得的な能力や才能があると認識するまでには時間が必要です。
小学生や中学生では、自己の個性を客観的に分析することは難しいと言えます。
義務教育では「勉強」を通して「学力」などの数値化が可能(成績やテストの点数)な「認知能力」が養われます。
反対に「能力」や「才能」は「数値化」して評価することが難しい側面から「非認知能力」と呼ばれています。
基本的に社会では「認知能力」と「非認知能力」のどちらか「一方」が発揮できるのであれば「どうにか」なるものです。
ですが「非認知能力」の存在を期待できない人物(才能や能力がない)が「認知能力」を育む義務教育の期間をボイコット(勉強しない)したのであれば、社会に「受け皿」はありません。
勉強(認知能力)も出来ない、才能や特出する能力もない、これではお手上げです。
才能や個性を過信して勉強しないと痛い目に遭います。

勉強により得られる「スキル」があります。
それは、権威に従う従順な人物が育成されることです。
物事に疑問を持たず命令に素直に応じる性格も立派なスキルだと言えます。
厳密には、勉強が個人の性格を改変するのではなく、フィルターとしての役割を担います。
性格や思考の根本的な構造(どのような考え方をするか)は、生得的な個性(遺伝子)に由来します。ですから、勉強がその個性を上書きするのではなく、教育システムが求める理想な人物(個性)がフィルターを通して顕著に現れるのです。
権威に従う従順な人物は、勉強に対して疑問を持たずに励んできた経緯から、その個性が明かされます。また、根本的な思考構造が上記と異なる人物は、勉強や教育システムの在り方に疑問を呈することで従順な性格(スキル)の育成を阻害します。
勉強をすることが性格に影響(従順になる)を与えるのではなく、その人物が本来持つであろう個性が勉強(フィルター)により露見されるのです。
ですから、結果的に勉強をしてきた子供は従順且つ権威主義的な性質傾向が見られます。

著者
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勉強により得られる「スキル」と言うよりは、勉強を通して発見された「スキル」と説明した方がしっくりきますね。

ここで注意が必要です。
それは、既存の教育システムに疑問を持てる人物が優秀であると勘違いすることです。
勉強が苦手な子供は自己の精神的な保身のために、既存の教育システムに疑問を抱くのですが、現段階では「優秀故の疑問」なのか「勉強から逃避する手段としての疑問」なのか、どちらかを判断することは出来ません。
才能や能力(優秀であるかどうか)の存在は年齢を重ねる過程で「他者と自分の乖離」を発見するものです。
小学生や中学生の子供たち、彼らは勉強の意味を大人に尋ねます。
そこには、生得的な能力(優秀であるかどうか)と関係はありません。
義務教育は勉強を通じて「我慢すること(従順)」「努力すること」を学ばせます。
というよりも、努力や我慢に適している人物をフィルター(裏漉し)で漉す作業でしょう。不純物である「思考する人物」を教育システムでは省きます。そのため、裏漉しされた素材(従順な人物)のみが皿に残るのです。
著者は義務教育、さらには勉強の重要性はここにあると考えています。
教育システムは社会システムと直結します。教育により規格化された人物が、裏漉し工程を終えて次の生産ライン(大学入試や就活)に向かう過程、ここで既存の生産ラインを逸脱すると廃棄されるのみです。
教育システムは社会システムに規格化された商品(人材)を提供する場所です。すなわち、教育システムの生産ライン(勉強すること)を逸脱することで社会システムに適応できない事態に繋がるのです。
前述したように、優秀な人物は既存のシステムに依存せずとも成功します。
しかし、優秀であるかどうかは年齢を重ねる過程で明かされるものです。
ですから、早期(小学生や中学生)に、教育生産ラインを逸脱することで弊害が生まれます。
優秀ではない人物は、既存の生産ラインで「我慢」と「努力」の習慣がインプットされるのですが、これは、社会で求められているスキルです。
酷な言い方をしますが、新たな価値を想像できない人物は「我慢」と「努力」等の精神的な労働力で社会に貢献するしか道はありません。
優秀な人物は生得的に「何か(才能や能力)」を持っています。しかし、「何か」を持たない人物が社会の要求を満たすためには「何か」に変わる「代替品」を提供しなければなりません。
その「代替品」が義務教育(勉強)で培われる「我慢」や「努力」です。
もしも、既存の教育システムに依存しなければならない人物(優秀ではない人物)が、勉強を逃避する手段として生産ラインを逸脱したのであれば、その機会費用の損失である努力や我慢は「代替品」の役割を果たしません。
勉強で培われるはずの努力や我慢の損失、つまり、本来であれば努力や我慢のスキルに適した人物(優秀ではない)が、既存の教育システムを逸脱することで陥る弊害が「勉強をしないこと」の問題なのです。
著者は何度も言います。
勉強は優秀ではない人間のためにあります。
そして、本質的に優秀であるかどうかの判断は子供には出来ません。
だから、勉強が必要なのです。
優秀ではない人物が勉強すら出来なければ、その価値は「何も」ありません。
生得的な能力や才能を補填するための勉強なのですから。
優秀でなくとも勉強で培われた知識や学力があれば社会はそれに応じた評価をします。

無能には勉強が重要である具体的な事例]
例えばです。
書類を提出すると仮定します。
提供する書類は企画書です。
優秀な人物は誤字脱字がある企画書を作成しても、その内容から相手を黙らせることが出来ます。上司から文字が汚いと指摘されても「形式は重要ではないので内容を読んで検討してくださいよ」と反論が可能です。
しかし、無能は内容では勝負ができません。ですから、綺麗な書類作成、誤字脱字添削の徹底、これら「気持ち」で評価を得るしかないのです。書類作成であれば、国語の勉強、漢字の習得が必須ですよね。
※大袈裟な例えです。
人に見られることを前提とした書類は綺麗に作成しなければなりません。ましては、上司の機嫌を損ねると理解しているのであるば、あえて丁寧な書類作成を怠る行為は愚かとしか言えません。
著者
著者

現在では、義務教育の在り方が見直されています。しかし、義務教育で育まれるような人材を求めている企業や会社は今でも豊富です。詳細は以下のリンクから。

[社会が求める人材]

記事を読んでいる子供たちは不安に感じたはずです。
優秀ではないのならば、努力や我慢を強要されるのでは?と。
確かに、現在の社会システムで無能が食い扶持を得るためには努力と我慢で奉公する手段が効率的です。
教育や勉強を通じて子供たちは、このような規格化の洗礼を受けます。
つまり、ロボットになるのです。

学校に行ってロボットになるな

なにか聴こえてきました。
さておき、世の中にはロボットにならなければ生きてはいけない人々も存在する話をします。
「ロボットにはなりたくない」
「自由に生きていきたい」
読者の子供たちは勘違いをしています。
それは、ロボットの生き方が「悪い」とした固定観念です。

努力の話題が出たので…
ツイッターのメッセージで小学生の息子を育てる親御さんから相談を受けました。
親御さん曰く、その息子から「努力したら絶対に報われるの?」と尋ねられたそうです。
「努力しても報われないことがある」
正論です。
しかし、私は「だから努力が必要」なのだと思います。
「努力しても報われないことがあるのだから、努力しなければさらに報われない」このように諭してみてはどうでしょうか。

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