学校の勉強をする意味、学力と仕事能力が比例関係にないと暴かれた現在における勉強の意義とは

義務教育(高等教育)

著者が勉強と能力の関連性を否定する理由

予め言わせて下さい。
著者は義務教育の勉強をサボっていました。
ですから、勉強は出来ません。
勉強が出来ない言い訳として自身の行為を正当化する目的の記事ではありません。
さらに、勉強が出来なくとも問題はないと同類を庇う記事でもありません。
心底、疑問に感じる問題を取り上げました。
勉強をすると「頭が良くなる」
そう思い込んでいる人々が存在します。
たしかに、統計的に分析すると学力と知能は相関関係にあります。
ですが、その統計の解析手段には勉強を用います。
そもそも、頭の良さとは何でしょうか。
定義できますか?
無理ですよね。
ならば、金を稼ぐ能力でしょうか。
年収を比較すると高学歴ほど賃金は高くなります。高学歴とは勉強が得意な集団ですから、学力により「金を稼ぐ能力」が養われるのでしょうか。
これも微妙ですよね。
現在の社会システムでは、偏差値が高い大学を卒業すると無条件で高待遇の職種に就けますから、勉強と就職は直結していると言えるのです。
とすると、金を稼ぐ能力と勉強の実力は異なります。
勉強は社会(生きていく上で)で役に立つことは確かです。
大学入試や就職で学力は必要ですよね。
しかし、機能的な側面を除いて、勉強の有用性を証明することは難しいのです。

著者
著者

著者には、勉強が及ぼす影響(メリット)を思いつきません

とりあえず、Googleで調べてみました。

勉強する意味、答えられますか?親から子どもに伝えたいことと伝えるときの注意点|ベネッセ教育情報サイト
【ベネッセ|学習】「どうして勉強しなきゃいけないの?」とお子さまに質問されたことはありませんか? 小学生だけでなく、中学生や高校生のお子さまに聞かれることもあるでしょう。いざその理由を聞かれると困ってしまいますよね。
子供に伝えたい15個の勉強する意味|伝える時の注意点もあわせて紹介 - chokomana
子供に勉強する意味を上手く伝えたいと考えている方も多いでしょう。本記事では子供に勉強する意味を伝えたい場合にどうすればよいのかや、子供に勉強する意味を伝える際に大人が気をつけたいポイントなどを紹介しますので、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょ...

今回はベネッセとちょこまな様から引用しました。
結果は以下の通りです。

・何かを学ぶ方法を身に付けるため
・世界を広げるため
・複雑な現象への理解力を鍛えるため
・物事に仮説を立て実証する力を身につけるため

だそうです。
著者は仕事の関係上、多くの大学生と関わる機会があります。
そこでは、勉強が出来るのにも見るも無残な学生が存在します。
本当に謎です。
もしも「何かを学ぶ方法」「世界を広げる」これらが勉強で養われたとすれば、その能力は行動に現れるはずです。
もしも「複雑な現象への理解力」「物事に仮説を立て実証する力」が勉強で養われたとすれば、就職活動や採用面接で理解不能な言動はしないはずです。
著者は不思議なのです。
なぜ、奇行に走るのかと。
記事を読んでいる読書の皆様、共に考えてください。
以下の記事を参照下さい。

勉強が出来ても馬鹿は存在します。
勉強が出来ても賢い人物も存在します。
反対も同じです。
勉強が万能ならば、学力が高い人物は賢くなければなりません。
勉強のみならず仕事能力も「大人の事情」の定説を踏襲すると比例しなければ「学力」を高める意義は薄れます。
ですが、実際には「勉強」ができるから「賢い」とか、「仕事」ができるなどは「大人」の「虚言」に過ぎません。
よくある事例として「授業や講義に不真面目な学生が課外のアルバイトでは活躍していた」さらに「バイトリーダーを務めていた」なんて話は多く聞きます。
「勉強」をする意味、本当に謎です。
少なくとも「大人の事情」としての「勉強をする意味」では、勉強が与える恩恵と、思考や行動の動機には因果関係があります。
しかし、実際には学力が高い馬鹿(仕事能力と学力が比例しない事例や知能と学力の関係性が曖昧)が定説を覆すのですから「大人の事情」は破綻するのです。
どうしてだろうか。
著者は考えました。
勉強が行動や思考に与える影響力は僅かなのでは。(詳細)
優秀な人物は学力に限らず優秀であり、馬鹿は学力に限らず馬鹿であると著者は考えます。
その根拠が、上記で紹介した記事の内容です。

サンタさんを信じる優等生

学力と知能が結びつかない代表的な例を挙げます。
それは「サンタさん問題」です。
幼少期にサンタさんの存在を信じていた子供は多いはず。ですが、サンタさんは現実には存在しません。
しかし、存在しないサンタさんが実在すると子供たちは信じるのです。
そもそも、子供たちがサンタさんの存在を信じる理由とは、家庭環境にあります。
親に「サンタさんは存在する」と言われたから。
朝起きたらプレゼントが置いてあるから。
要するに「義務教育」と同じく「素直さ」や「従順さ」により、自らの思考を排斥して意思決定(いるかいないか)した結果が「サンタさんの存在」です。
物事の背後関係や与えられた情報を、適切な処理(与えらた情報を整理、取捨選択)を講じることなく吸収する点では、年齢を問わず陥る弊害でしょう。
幼少期では「素直」や「従順」な性格は評価の対象です。
ですから「サンタさんを信じる行為」が損失に繋がるかことはないでしょう。
しかし、社会の原理は「騙し騙され」が基本です。
「与えらた物事」に「疑問」を持たずに「信じる」行為は損失に繋がります。

著者は「サンタさん問題」を通して考えました。
頭が良ければ「サンタさんの存在」を否定できるのではと。
それは、子供でも可能です。
サンタさんは子供たちにプレゼンを配ります。
最初の「疑問」はここです。
なぜ、サンタさんは子供たちにプレゼンを配るのでしょうか。
子供でも「買い物」の経験はあります。
ならば、金銭と言う「対価」を支払い「物品」や「サービス」を受け取れる構造が理解できるはずです。
「何か」をしてもらうためには「何か対価」を与えなければならない、この認識は子供にもあります。いや、あるはずです。
「買い物」を経験すると、サンタさんは「何を目的」として行動しているのか、疑問が生まれるはずです。
そこで、サンタさんが配布するプレゼントの分量から推察することで、完全な善意であることは否定されます。
サンタさんは子供にプレゼントを配るのですが、配布する分量は子供の人数と比例することから莫大な労力が課されます。
子供の人数は、具体的な実数を把握する必要はなく、子供の主観で認知可能な領域(学校には子供がたくさんいるとする認識)から、プレゼントを配布する「労力」は推察できます。
さらに、プレゼントの分量を貨幣価値に換算する知識がなくとも、「労力」で行動(プレゼントを配る)の価値(大変さ)を理解できます。
とすると、サンタさんの「労力」は「何を」対価にして成立しているのだろうか、このような疑問が生じるはずです。
善意でなければ「対価」の支払いを求められる構造は「買い物」を経験すれば、子供でも理解できます。
少なくとも著者はそうでした。
自分は「対価」を支払う行為をしたのだろうか、悩みました。
サンタさんに関する疑問は他にも。
クリスマスにプレゼントを配るサンタさんが捕まらない疑問です。
著者は幼少期に思いました。
サンタさんを捕らえたらプレゼントを独り占めできると。
なのに、誰もサンタさんを捕らえようとしません。それどころか、サンタさんの目撃情報もないのです。
子供にプレゼントを配る大規模な計画ですから、捕獲や目撃は容易であるはずです。しかし、実行や成功の話は聞いたことがありません。
幼少期の著者は考えました。
サンタさんは神なのでは、と。
神と同じく全知全能な「サンタさん」なら、「目撃」されたり、誰かに「危害」を加えらる心配はありません。それに「対価」を求められることもありません。
しかし、そこにも疑問が生まれます。
子供にプレゼンを渡す「神様」が、どうして子供を殺すのかと。
子供にも、世の中が不平等であることは理解できます。
子供にも、世の中が残酷であることは理解できます。
ニュースや新聞、大人の会話、これらの媒体から情報を得ます。
戦争をしている国があること。
虐待で殺された子供の存在。
全知全能な神様が「なんで」こんなことをするのかと。
プレゼントを子供に配るサンタさんが「なんで」こんなことをするのかと。
全知全能ならば「救う」こともできるはず。
このような疑問から「サンタさん」の存在は否定されました。
これまでの内容は「サンタさん問題」の一例に過ぎません。
しかし、サンタさんの存在は子供の認知が及ぶ範囲で十分に結論(いるかいないか)を導きだすことが可能です。
そのため、物事に「疑問」を持てればサンタさんの存在は子供の知能でも否定できるのです。
「推察する力」と言うのでしょうか。
学校の勉強(学力)が知識であるのであれば、知識と知識をつなげる(物事を論理だて推察する)作業が知能と位置付けることができます。
であれば、学力は知能を活性化(発現)させる手段としては機能しますが、生得的に備わる知能の領域そのものを広げる作用には期待できません。その領域に「疑問」の思考を司る因子がインプットされているのでしょう。
少なからず、懐疑的思考の起源が学力によるものだと主張することは難しいと思います。
サンタさんを信じる優等生、勉強が得意であるにも限らず「サンタさん」の存在を信じる子供の存在が裏付けだと言えます。
興味深いことに、中学生でも「サンタさん」を信じる子供はいます。
彼らの学力は決して低くはありません(統計に偏りが無い)。
勉強が「大人の事情としての勉強の意味」に与える影響は少ないように思えます。

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