数学や算数を学ぶ意義や重要性 理系教育がもたらす影響とは

義務教育(高等教育)

数学教育の重要性

学校教育における数学は重要な科目と言えます。
著者は、これまで数学の試行錯誤が齎す能力との関係を否定してきました。
しかし、あくまで「能力」との関係性を否定する主旨であり、数学を学ぶことを非難してるのではありません。
学校教育に関する議論、数学に関する議論、これらは必ず主観が混入します。
数学が苦手な子供たちは共通して主張します。
数学は役に立たないと。
自身の弱点である事柄の社会的な地位や評価(役に立たない)が低いこと(思い込むこと)で精神的な支えとしたいのでしょう。
学校教育の議論、はたまは学歴論争でも同様です。
自己が苦手とする項目が世の中では無価値であると主観的に整理する人物は凡ゆる議論に姿を表します。
これらは、反対の立場でも。
数学又は学校教育で「努力」してきた人物、それらを「得意」とする人物は、自己の行動や行為、人間としての価値を高く(数学や学校の成績が世の中の絶対的な指標ならば自身の市場価値も上昇する)評価されることを期待して、自己の努力(行為や行動)や事柄(得意な物)を高尚な存在に格付けするのです。
ですから、数学や学校教育の必要、不要論の議論では、主観に立脚した主張が展開されます。
子供に及ぼす数学教育の影響(能力的)や必要性を過大評価又は過小評価する人々に「数学」を語る資格はありません。
少なからず、事実から立脚した主張でなければ、議論の場にすら立てないのですから。
さて、数学の試行錯誤が日々の生活(仕事など)に必要な能力(論理的な思考など)に繋がる可能性は極めて低いと説明しました。
ですが、それも二重否定を含む内容であることは論じた通りです。
否定もできず、肯定もできない状況。
つまり、「分からない」が結論です。
著者の持論としては、数学が論理的な思考(各々の思考)を育むのではなく、論理的な思考(各々の思考)を生得的に備えている人物が数学の影響を、自己の努力と照らし合わせて過大評価しているに過ぎないと考えます。
しかし、数学の学習が論理的(各々の能力)な思考を育む性質を有する存在であることを否定できない現状から「分からない」と定義することが妥当であると言えるのです。
そのため、数学を学ぶ意義における「能力が身に付く」とする定説には、曖昧な意味(不明確)しかありません。

著者
著者

ならば、数学は重要ではないじゃん

著者は数学の重要性を説きます。
文科省やメディアの情報では「能力」と絡めた「回りくどい」説明で子供たちに「数学の重要性」を伝えます。
ですから「ややこしく」なるのです。
シンプルに数学の重要性を伝えます。
数学の知識は直接「仕事」に役に立ちます。
そもそも、世の中は数学だらけです。
あなたが住んでいる住居も、通勤や通学に使う電車や自動車、道路、何もかも「数学」の恩恵で成り立っています。
学校で学ぶ数学や算数の勉強は基礎的な知識を補填して応用数学に繋げる役割を期待できますから、必然的に「仕事」に繋がるのです。
数学で成り立つ現象や事柄が多い社会、つまり、仕事や収入に繋がる領域が広いと言えます。
厳密には、数学の知識が仕事で「役に立つ」のではなく、数学の能力が求められる「仕事」に就ける選択肢が広がるのです。
義務教育では「国語」「算数」「理科」「社会」など、様々な科目を学ぶのですが、どれも「何かしら」の「役に立つ」ことは確かだと言えます。
それは、勉強に限りませんよね。
友達との喧嘩、鬼ごっこをした思い出、テレビゲーム、どれも「何かしら」には活かせるのです。
その「何かしら」に活用できる範囲が広い「物事」が「数学」であると言えるのです。

数学分野は「役に立つ」領域が大きい ※図説における他の科目の重なり度合いは適当です

著者は、子供たちに数学の重要性を以下のように伝えます。
「数学の勉強をすることは大学に進学するようなもの」と。
将来の選択肢(仕事の幅)を広げる手段として「数学」は「大学進学(大卒)」と「同価値」であると考えます。

著者
著者

数学の勉強はコスパが最強‼︎

職種の選択が「人生」を豊かにする「道具」であるのならば「たくさん」の「道具」を手元に用意することに損はないでしょう。
さらに、数学教育に力を入れている国はIT産業が発達します。
主な事例はインドです。
インドと言えば数学である
それくらい、数学教育に着目しているのです。
もちろん、IT産業の発展が全て数学の恩恵であるとは断言できません。
インドのIT技術が発展する要素を一律に示すことは困難ですが、数学の影響が大きいことは確かです。
ITエンジニア、IT業界ではプログラミングの技能が求められます。
プログラミングでは、ある目標に向けた筋道を立て、構造を組み上げるプロセスから成果を出します。
ですから、途中の道筋が破綻又は矛盾しているのであれば、正常にプログラムは動作しません。
数学でも、公式や定理、計算を元に問題を証明するプロセスから、その論理が破綻すると答えが出ません。
「結論」を導く「過程」における「道筋」を「論理的」に組み上げる性質は、「数学」と「プログラミング」で共通のように思えます。
ちなみに、ここで意味する「論理性」とは、公式や定理から道筋を立て数学の問題を解決する能力です。
実生活や仕事に求められる「論理性」と、応用数学(プログラミングなど)で求められる「論理性」では、その性質に違いがあります。
あくまで、数学で養われる論理的な思考とは「数学に求められる論理性」を補填する効果に留まる範囲と言えます。
プログラミングは、数学で養われる素養の範囲に類した性質から、その作業の効率化を数学の学びを通して期待できるのです。
数学の試行錯誤で得られる「論理的な思考」と、プログラミングで求められる「論理的な思考」が完全に一致するとは限りませんが、それでも、数学が得意な人物のプログラミングの技能が長けている(統計:エンジニアの六割が理系学部生)傾向から、何かしらの関連性が伺えます。
IT産業を発展させる要素としての根拠を踏まえて「数学」の「勉強」は「重要」であると言えるのです。

論理的な思考能力とは一つに括れるものではない。
もしも、論理的な思考能力が全ての事柄において、その「論理性」を発揮できるのであれば「万能な能力」だと言えよう。
世の中には、一つのスキルが網羅的に機能するような全幅な能力は存在しない。
日常生活における論理性、数学における論理性、理屈を捏ねるための論理性、仕事における論理性、「論理性」の定義だけでも無数に存在する。
もちろん、それぞれの「論理性」には関係性(能力同士の関係性)がある(否定や肯定ができない)のだろうが、その近似値や度合いは不明である。
同じ「論理的な思考」でも、全く関連性がない事柄もあれば、反対もまた然り。
著者
著者

数学を学ぶ重要性は「直接的」に「役に立つ」(応用できる範囲が広い)からです。
どちらかと言うと「数学教育」と呼ぶよりも「理系教育」との言葉がしっくりきますね。

数学の重要性は他にも。
数学や算数の勉強では「数字」が登場します。
社会生活を営む上で、人間と数字は切っても切り離せない関係です。
著者の持論ではありますが、数学や算数を通して「数字に慣れることが大切」であるように思えます。
著者は「理系」ではありません。
仕事も「理系」ではありません。
しかし、「数字」を扱う機会は豊富にあります。
統計やデータには必ず「数字」が含まれていますから。
分析や解析は「文理」問わず求められるスキルです。
数字を見た時に嫌悪感を抱くのであれば、作業効率が衰えます。
もしも、数字に対する嫌悪感が無ければ、どんな仕事も捗るでしょう。
ちなみに、著者は数字を見ると吐き気を催します。
ですから、数学や数字とは距離を置いた職業選択をしました。
それでも、「数字」に悩まされるのですか、如何に「数学」が日々の生活や仕事に浸透しているのかが分かります。
そのような、重要性が高い数学、自身の「苦手」を把握するためにも勉強の必要があります。
仕事で求められるから「数学を身に付ける」のではなく、苦手を理解するために学ぶ意味もあるのです。
もしも、数学が苦手なことに気が付いたのであれば、それに類する仕事(プログラミングなど)には「向いていない」のだと、予め職業選択を考える機会になります。
ほとんどの子供は、やりもしないで「勉強」が「嫌い」だと言います。
やらなければ「苦手」又は「得意」の判断はできません。
「苦手」ならば「やらなくても」構いませんが、「食わず嫌い」は将来の「可能性」を潰す行為です。
自身の「苦手」を把握するためには、他者と平均した時間の学習が必要になります。その結果により、向き不向きが分かるのです。
「数学」は社会生活(仕事の選択肢)に欠かせない存在故に、自身のポテンシャルを把握する労力(数学の勉強)は無駄にはなりません。

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