「人生は冒険だ‼︎ ロボットになるな‼︎」この考え方実は正しいです。

義務教育(高等教育)

ロボットとしての生き方、ロボットを否定した生き方、基本的に前者は万人を受け入れます。優秀な人間、無能な人間、ロボットとしての生き方では「来る者は拒まず」の精神です。されど、ロボットを否定した生き方では、生得的な要素(遺伝子)である能力や才能を社会から評価される領域が広いと言えます。
さらに、ロボットの「生き方」は多くの人々が辿る道です。
著者とて「ロボット」です。
偉そうに記事を書いていますが、既存の社会システムを活用する一員です。
みんなが「辿る道」を無難に進む、何が悪いのでしょうか?
「ロボット」を否定する行為は自由ですが、「みんな」が「辿る道」を真似る「生き方」には「模範解答」が存在します。
つまり「楽」なのです。
「勉強」をすると「良い大学」に通える。「良い大学」に通うと「良い仕事」に就ける。日本の社会システムは、これ程までにシンプル且つ明確な構造です。
ここには「才能」も「能力」も必要ありません。
もちろん「勉強」にも遺伝子が関連していますが、高校までの学習は「誰でも」解けるようなカリキュラムが組まれています。
習得に要する時間に「遅い早い」はあれど、大きなアドバンテージではありません。
東大、京大、などの名門校を目指すのであれば「才能や能力」は必要でしょう。
されど、現在の就活市場を鑑みると「Fラン大学」からでも容易に大手上場から内定される状況なのです。 
ですから、大学なんぞは「中堅」で十分です。
ロボットとして最低限の「勉強」(学校生活)を熟すだけで、そこそこな(将来的に)地位は補償されるのですから、人生は「イージー」であると思います。
職種で示すのであれば「公務員」は「ロボット」の代表的な例だと言えます。
「公務員」になれば「生活」にも困りません。もちろん「収入」も。
なのに、自ら「ロボット」の生き方を放棄して、途方に暮れて人生を彷徨う人物が存在します。世の中には「ロボット」にすら「なれない」人物がいるのですから驚きです。

世の中にはロボットにならなければ生きていけない人々も存在するのです。
さらに、現在の社会制度を考慮すると、新卒採用の需要が高い(詳細)ことから、過渡期である情勢(求められる人材の変化)を踏まえても、未だに市場がロボットに固執している傾向が強いと言えます。
ですから、無責任にロボット(思考停止)を否定する意見には賛同できません。
ロボットとしての生き方。
それは、悪いことなのでしょうか。
前述したように、性格に「良し悪し」は存在しません。
なのに「上」と「下」に拘る考え方は愚かとしか言えません。

世間
世間

ロボットになるな

つまり、ならないことを理想としてるのです。
義務教育は「権威主義」の慣習を子供に刷り込みます。
(厳密には、権威主義的な性質を持つ子供を「より一層」従順な性格に加工する作業です。遺伝により決まる生得的な性格は変わりませんから。)
すると「命令される仕事はダメだ」とする主張が生まれるのです。
確かに、学校の「校則」や「勉強」を通して「理不尽」な「命令」に従う「従順さ」が性格に「付与」されます。
それでは、従順である「馬鹿」は「ダメなこと」なのでしょうか。
著者はブログで「馬鹿」や「頭が悪い」との言葉を多用しています。
しかし、それは「良し」「悪し」ではありません。
犬は人間よりも知能が低いです。
ですが、犬は可愛いです。
著者は犬が大好きです。
人間社会も同じです。
「頭が良い」ことが「価値」であると信じている人々が多いように感じます。
なのに「学校に通いロボット(馬鹿)になるな(ロボットに対する否定及び自由な生き方が理想である)」とする主張は、仕事の価値を知能の優劣で断定しています。
「自由に思考する仕事が模範的」であり「偉い(価値が高い)」、そして、「命令されて働く仕事」は「劣っている」、このように。
現在では、多様性が評価されることで画一的な教育プログラムである学校が批判されています。
その理由は、社会が多様性を求めているからです(多様性が認められる前提として新たな価値を想像することができる)。
だから、能動的又は自発的に行動できる人物が「優秀」であると誰しもが憧れを抱きます。
しかし、昭和の時代では「ロボット」の生き方が理想でした。
でなければ、戦争には勝てません。
つまり、死ぬのです。
このような、社会情勢では「ロボット」が「優秀」であると評価されていました。
そもそも「言われたこと」を熟す仕事があたかもダメであるとする風潮が理解できません。
人間は誰しもが「教わる」ことで成長してきました。
子供は親に言葉を教わります。
子供は親に生き方を教わります。
「教わること」や「言われたこと」を熟す性質は人間の本能であるとも言えるのです。
さらに、人間の「良し悪し」なんてものは時代により変化します。
もしかしたら、日本の遥か未来では、現在では批判されている「ロボット」としての「生き方」が改めて評価されているかもしれません。
そのため、普遍的な評価は存在しないのです。その環境や状況に応じた評価のみが存在します。
なのに、多く人々は現在(目先)に求められる評価を普遍的な価値として認識するのです。
仕事も、一昔前は「ロボット」であることが理想であると人々は声を高々に主張していました。
しかし、状況が変わると手のひらを返したように主張を改めます。
「ロボットは悪いこと」だと。
されど、未来については不確定なのですから、多様性を取り上げるのであれば、適者生存としてのバリエーションを確保すべきのようにも感じます。
ロボットが悪いことであると非難する人々こそ、社会の変化に過敏に適応しようとする「ロボット」なのでは無いのでしょうか。
もちろん、普遍的な評価として「ロボット」を非難しないのであれば、問題はありません。
そうすると、互いに異なる性質を有する人間であったとしても尊重はできるはずです。
さらに、時代の変化に関わらず「ロボット」としての生き方は、現在の社会にも一定数の需要があります。
世の中には「スーツ」を着ているだけで「偉い」と錯覚する人々が存在するくらいです。
ホワイトカラーとブルーカラー、これらの業種の違いは相互に補い合うことで成立しています。
どちらが「優れている」かなどの発言は愚問でしょう。
「ロボット」の議論も本質は変わりません。
義務教育に反対する人々は盲目的に「起業」や「クリエイター」として生き方を勧めます。
ですが、仕事に優劣は無いのですから、自分が得意な方(命令される仕事と自由な仕事)を選択(自分が得意なことを伸ばせばいい)すれば良いのです。
命令されて行動(言われた仕事)することが得意な人物は指示されて行動する能力を高めれば良いのです。
あえて、ロボットを逸脱するのであれば「向いていない」ことをするのですから非合理的です。
得意なことをしましょう。
その選択に「優劣」はないのです。
そして、ロボットとして働く人々若しくはロボットを拒む人々は「脱ロボット」が「良い」(知能が高いことが良いことである)ことであると錯覚します。
著者の経験を交えて記述します。
疑問を持つこと、それは時に相手の矛盾点を発見します。
なぜだろう、どうしてだろう、学校の先生や友人との会話、制度、仕組み、仕事、行動、凡ゆる事柄で思考します。
すると、相手の行動や発言に疑問が生じるのです。疑問とは矛盾点でもあります。
「この考え方のほうが建設的なんじゃないか?」とか「なんでA案を採択しなかったのか?」などです。
その疑問を相手に伝えて理解されたのならば問題はありません。
しかし、世の中は「思い通り」にはいかないものです。
理解されるどころか話を聞かない、怒り出す、除け者にされる、本当に辛いものです。

もしも疑問を持たず「みんな」と同じ価値観で生きていけたら、何度もそう思いました。
私にも、隣の芝生は青く見えるものです。
自分は正しい行動をしているはずなのに、誰も理解してくれない。
地球は球体であると主張したコペルニクスが迫害されていた姿を見て羨む者は少ないでしょう。しかし、コペルニクスが後世に名前を残したように、成功者や「何かしらの能力」がある人物は、その「特出した箇所」のみを評価されます。
その評価の裏には、優れた「何か」により「苦しんだ」痕跡があるのです。
義務教育で「ロボット」に規格化された人物は「理不尽」な「社会」を順応します。
「疑問」を持たないのですから「正しいさ」を測ることもできません。
だから、理不尽な社会に従うのです。
理不尽な世の中に争う行為はそれだけで逆風に合います。逆風は辛いものです。
だから、思考を放棄して理不尽な世の中に適応した方が幸せになれる場合もあるのです。
「知らぬが仏」
まさに、現代社会を表す言葉だと言えます。
「疑問を持つ」こと、「ロボット」ではない生き方、「みんな」と外れた生き方は反発を招きます。
先程も取り上げた「意見をハッキリと述べる」性格、羨む気持ちは理解できすが、それと同時に「敵を作ること」の苦悩を考慮(羨む人達は悪い箇所が見えない)してはいないでしょう。
現在の我々は、コペルニクスが「太陽中心説」を説いた事実のみに感心を寄せます。
彼は「凄い」人物であると。
けども、そんな「凄い」人物を迫害した人々や、都合よく評価する現在の社会も、本人の苦悩に向き合おうとしません。
物事に疑問を持てずに思考停止する人々にも悩みや苦しみがあることは重々承知しています。
ならば、異なる性質というだけで、同じ人間であるのにも関わらず、悩みや苦しみが例外的に免除される対象であると考えられている原理に疑問を呈します。
私とあなたは何が違うのだと。
あなたと同じく、苦しみや悲しみがあります。
なのに、ロボットにならないことを「理想」とする人物は「疑問を持てる」思考を欲しています。
あなたに「苦手な事」や「辛い事」があるように、性質が異なる人物にも「苦手な事」や「辛い事」は存在するのです。
立場を変えましょう。
もしも、とある人物から「疑問を持てない短絡的な思考で生きるのが楽そうだね」と言われたらどう思いますか?
これと全く同じです。
性質が異なる人間にも感情はあります。
能力や性格も、広義に捉えると「ジャンル」です。
人種、国籍、性別、このような区分と遜色ありません。
「男だから子育てしなくて楽だね」とか「女だから働かなくて楽だね」これらは、本当にそうでしょうか。違いますよね。
「疑問を持つ」「思考する」「頭が良い」これらを褒め言葉であると定義する人間が多い世の中に憤りを感じます。
著者はブログを書いています。
主に、就職活動や時事を題材にした記事です。
そして、就職活動に関する執筆意欲は「ストレス」が原動力になっています。
自身の就活経験や学生の就職支援で募った不快感を原動力にして記事を書いていますから、その分量から相当なストレスを溜め込んでいたと察して頂ければ幸いです。
「何でこんなことも分からないの?」「何でそんなことをするの?」学生の言動や行動には驚かされます。少しであれば耐えられますが、それが、毎日、毎時間、毎分、その都度にストレスが蓄積されるのです。

これに限らず仕事や日常生活でも。
理解不能な行動をする人間の多くは馬鹿です。
馬鹿は会話が苦手です。
意思疎通が可能ならまだしも、会話すら出来ない人物とのコミュニケーションは本当に疲れます。
もしも、疑問を持てない思考構造であればどれほど楽かと。
これこそが「誰かになろうとする」原理なのでしょう(笑)。
「疑問を持つ思考」すなわち「ロボット」ではない生き方を羨む気持ちも理解はできます。
著者も「ロボット」に「なりたい」気持ちが少しはありますから。
今回の記事から、物事に疑問を持ててしまうことにも苦痛はあるのだと理解して頂けたら幸いです。
ですから「ロボット」の生き方が「悪い事」だとする認識を見つめ直して下さい。

 

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