「いじめ」の構造と被害者の対応要領 なぜ人間社会はいじめを許容するのか

義務教育(高等教育)

不登校を拒む理由

イジメの対処では①反撃②逃避があると説明しました。
しかし、保護者、当事者を問わず「学校に通わない」選択をすることに抵抗を感じている人々が非常に多いのです。
学校に通わない選択が「一番」楽にイジメ問題を解決する手段に長けているのにです。
イジメられたのであれば、あえて「関わること」はせずに「蓋をすれば」良いのです。
なぜ、不登校の選択に抵抗を感じるのでしょうか。
それは、将来への不安です。
学校に通わなければ「就職」できない。
学校に通わなければ「社会人」として必要な能力が身につかない。
このような、不安でしょう。
確かに、みんなが歩む「道」から外れることには抵抗があります。
著者は「学校の必要性」「勉強の必要性」を、将来の可能性を広げるためには重要な場所であると以下で述べました。

そのため、従来であれば学校に通い教育の恩恵を享受する可能性がある子供が、不登校を理由に職業選択の幅を狭める結果に繋がることを懸念する保護者の心情は理解できます。
ですが、イジメられた経緯を振り変えると「学校の様な環境」に馴染めないから「イジメ」られたのだと解釈できませんか。
学校には「イジメ」があります。
「イジメ」があるのですから「被害者」がいます。そして「加害者」もいます。さらには、「イジメ」とは無関係な「第三者」や「傍観者」がいます。
これら、「加害者」と「被害者」、「第三者」との違いは何でしょうか。
なぜ、「第三者」は「イジメ」の対象とならず「被害者」は数多くの中からターゲットに選ばれたのでしょうか。
それは、被害者が「普通」ではなかったからです。
「普通」ではない人物が、「普通」である人物が通うことを想定した「学校」で馴染めるはずがありません。
著者は、学校に通う重要性を「自己の性質(学校のような環境が合う合わない)」を知る上で大切であると語りました。
ですから、はじめから学校教育を否定して不登校になろうとする世論には賛同できません。
しかし、イジメの被害者は登校拒否ではなく不登校です。
つまり、学校社会に馴染めず不登校になった経緯を踏まえると、このような「社会形態」で生きることが苦手であると解釈できます。
ならば、学校教育が辿る延長線上の生き方では幸せにはなれません。
あくまで、学校教育で育まれる人材とは、学校制度を踏襲した同一形態の社会に適合する人材を指します。
むしろ、学校に通うことで将来に渡り我慢を強いることにも繋がるのです。
学校教育やそのような社会形態に馴染めないのならば、他の生き方を見つけるべきです。
著者も、学校に馴染めずに苦労した人間の一人です。
後に、学校教育の延長線とも言える公務員に採用されたのですが、やはり、馴染めずに退職してしまいました。
苦手なことはやるべきではありませんね(笑)
学校に通わなければ就職できない、このような不安は少なからず抱いていると思います。自分の適性に合う仕事に就くためにも「とりあえず学歴が必要だ」「だから学校に通わなければならない」ごもっともな意見です。
しかし、義務教育での時間が「全て」であるとの風潮は間違いです。
就職において、重要となる経歴は現在の学歴のみです。
大卒ならば大学、高卒ならば高校、大卒採用で小中高校の経歴を深掘りされることはまずありません。仮に聞かれたとしてもウソを付けば良いのです。
そのため、不登校を理由として将来を心配する必要はありません。
義務教育であれば、不登校でも卒業はできますし、高校は通信制でも良いわけです。コミニュケーション能力が身に付かないと懸念する気持ちは分かりますが、不登校になった経緯を踏まえると元から大多数の価値観と合わせて友人と関係を築くことが苦手なのですから、あえて苦手なことはさせずに、別の進路を模索して、それに応じた大学に進学すれば良いだけです。
さらに、現在の就活市場では、高学歴のみが就職できる等の情勢ではありません。
一流大学に進学したいのであれば、学校に通う必要はあると思いますが、就職のみを踏まえた進学ならば中堅大学で十分です。ならば、将来を懸念して学校に通わせることを強制する必要は少ない様に思えます。

 

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