「いじめ」の構造と被害者の対応要領 なぜ人間社会はいじめを許容するのか

義務教育(高等教育)

イジメをなくすことは可能なのか?

教育現場の在り方でイジメは無くなるのか?
イジメを無くそうと奔走する大人達が存在します。
彼らは「子供たちは善意に溢れているのだから教育の在り方で「イジメ」は無くなる」と本気で考えています。
そもそも「イジメ」は「人間」の「本質」です。
さらに、人間の「本質」は「悪」に満ちています。もしも「イジメ」を無くしたいのであれば、人間の「本質」に打ち勝つことが必要です。
つまり、我々は人間の遺伝子を超えた存在になることを求められているのです。

著者
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性格は簡単には変わりませんよね。

人間の「本質」に含まれる「イジメ」を排斥するためには「遺伝子」を越える教育が必要となります。
現在の義務教育は「洗脳」であると揶揄されていますが、実際は子供に思考的な「自由」を保障(体罰などのが無い)しているのですから、洗脳と呼ぶには余りにも脆弱です。
ですから、遺伝である人間の本質を組み替えるまでの効果を教育システムに期待することは難しいと言えます。
外部的な刺激(教育など)により「イジメ」を撲滅することは不可能です。
ならば、人間そのものが変異する必要があります。
人間が遺伝子を超越し「人ならざる存在」に昇華したのであれば「イジメ」は無くなるでしょう。
遺伝子の組み替え?種の進化?気の遠くなる様な話ですね。
他にも「イジメ」を無くす方法はあります。
それは、徹底した監視社会を作ることです。
「イジメ」をした瞬間に「摘発」されるような世の中ならば、誰も「イジメ」をしません。
取り締まりを強化する意味では「イジメの事件化(犯罪化)」と似ています。
基本的に人間は、大人や子供の分類に限らず、本質は変わりません。
もしも、警察や裁判所が無ければ法律を誰も守らないでしょう。
「犯罪」には「罰」があるから「法律を守る」のです。
「イジメ」も「リスク」があれば「減ります」。
「イジメ」は「楽しい」ことです。
「楽しいこと」を辞めさるためには「リスク」が必要です。
「楽しいこと」に規制をしなければ、その行為は継続されます。
子供を叱らなければ勉強をせずにゲームなどの遊びを永遠に続ける原理と同じです。
叱られるリスクがあるから楽しいゲームを中断するのです。
「イジメ」を回避する手段は「リスク」です。
あいつを「イジメる」と「自分」も「傷つく(リスク)」、このように、リスクや規制を無関係にして「楽しい」ことである「イジメ」を辞めさる手段は少ないでしょう。
刑事司法では「犯罪原因論」と呼ばれる心理学の領域があります。
そこでは、犯罪者の心理(なぜ犯罪行為を行うか)を「合理的選択理論」として説明しています。
犯罪によるリスクと利益の比較考慮により、犯罪の利益がコストを上回ると犯罪者が行為を実施する意思決定が成されるとする定義です。
その他にも、犯罪心理学や刑事政策において活用される「古典条件付け」では、応報刑や抑止力として「恐怖」(刑罰による威嚇)を「条件」として学習させることで犯罪を減少させる考え方が存在します。
これらから、犯罪においても「リスク」は重要であると言えるのです。

著者
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北朝鮮では犯罪者が少ない

それは、徹底した「取り締まり」による影響でしょう。
犯罪行為を実施する「リスク」が余りにも大きいのです。
ですから、犯罪行為は減少します。
「イジメ」も同様です。
「イジメ」が例外なく「裁かれる」のであれば、その行為は衰退します。
そのためには「例外なく」「イジメ」を取り締まるシステムが必要です。
徹底した監視社会が「イジメ」を無くす最適なシステムであると言えます。

イジメを無くすためには「人間を辞めるか」「徹底した監視社会に身を委ねる」しかない

「イジメ」を完全に無くすことは難しいと言えます。
しかし、「イジメ」を減らすことは可能です。
文科省の調査では「小学校」「中学校」「高等学校」のイジメ認知件数が統計として公開されています。
しかし「大学」のイジメ認知件数の統計は存在しません。
なぜでしょう。
それは、大学での「イジメ」が問題視されないからです。
もちろん、大学にも「イジメ」の問題はあります。
しかし、義務教育や高等学校の「イジメ問題」と比べると優先度が低い、つまり「大学」での「イジメ」の被害は比較的「少ない」と言えるのです。
「大学」での「イジメ」が少ない理由は二つです。
「イジメ」の行為が犯罪として処罰される、「イジメ」よりも「楽しい」ことがある、これらの影響が大きいでしょう。
大学では「自由」に友人関係を築けますし、何より「楽しい」ことが豊富です。
義務教育のような閉鎖的な環境で友人関係を強制されることもありません。
「嫌いな人物」とは「避ければ」良いのです。
「イジメ」る必要もありません。
わざわざ「嫌いな人物」と関わることで「得られる楽しさ(イジメ)」よりも、「好きな人物」や「好きな物事」に熱中することで「得られる楽しさ」の方が何倍も価値があります。
大学は自由です。
だから、「イジメ」が少ないのです。
学校教育で問題視される「イジメ」は、子供たちに自由な環境(誰と仲良くするか子供たちに決めさせる)を与えることで解決します。

読者
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義務教育や高等学校も大学のような環境を整備すれば?

もちろん、大学を模した環境を学校教育に導入することで「イジメ」は減少します。
しかし、学校とは社会に適した人材を輩出するための教育機関です。
残念ながら「イジメ」は社会勉強です。
義務教育が社会勉強である「イジメ」を手放す損失を考慮すると大胆な環境の改善は期待できないでしょう。
「自由」や「好き」を制限することで社会は成立しているのですから、義務教育で経験する「同調圧力」や「嫌いな人物とも仲良くしなければならない」ような仕組みは社会に適応した人材を育成する手段の一環です。
現在の社会では「我慢」や「努力」が仕事で求められます。
そして、「理不尽」で「不合理」な「命令」にも「疑問」を持たずに「従う」性質は「我慢」や「努力」なしには成立しません。
「イジメ」は「理不尽」で「不合理」です。
しかし、これが社会の縮図でもあります。
理不尽な仕打ちに努力と我慢で耐える、又は疑問を持たないことでストレスを抱え込まないようにする、「イジメ」と同じです。
「イジメ」は被害者のみならず「傍観者」の存在が重要になります。
「イジメ」を通して「傍観者」は「傍観者」としての役割を社会に出てからも演出するのです。
「理不尽」で「不合理」な「事柄」には「疑問」を持たずに「従う」ことを、「傍観者」としての経験から学びます。
「見ないふりをしよう」
「文句を言わないようにしよう」
「下手に逆らわないようにしよう」
このように。
「イジメ」は当事者のみならず、その影響から「構造」そのものに意味があるのです。
「イジメ」をする権威(イジメる空気感)を黙認する姿勢(傍観者)は、やがて上司である権威に逆らえないようになるための練習です。
「イジメ」は「素直」で「従順」な人物を作り出すためには必要であると言えます。
もしも、大学のように「好きな人物」のみでコミニュティを形成できるのであれば「耐性」が無い人物を育成することに繋がります。
不特定多数の「みんな」を「教室」に集めることで、擬似的(社会を模して)に「嫌なこと」への「耐性」を子供に付与するのです。
「嫌なこと」を与えるため、子供を規格化するため、これらの環境は「イジメ」の存在を内包しています。
ですが、年功序列や官僚制、縦社会の組織構造(現在の社会システム)を支えるためには欠かせないのです。
そのため、「イジメ」を減らすことは義務教育の性質から考えると難しいと言えます。
環境や外部の助けには頼らず「自分の身は自分で守る」ことが大切です。

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