「いじめ」の構造と被害者の対応要領 なぜ人間社会はいじめを許容するのか

義務教育(高等教育)

イジメが正当化される状態

読者
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[イジメ」の定義とは?

本人がイジメを自覚したらイジメが成立します。
なので自己申請です。
例えば、犯罪を犯して逮捕されたとします。
逮捕された本人が警察に対して「イジメ」であると感じたのであれば、それは「イジメ」です。
ですから、ここでは「イジメ」られる原因が本人の「過失(悪い)」であることに限定します。
では、「イジメ」の行為が「正当化」される状況とは具体的に何を示すのでしょうか。
それは、イジメられる本人に「過失(悪い)」が認めらる場合です。
日本では犯罪行為は処罰されます。
その、処罰に対して容疑者が「イジメ」であると主張しても「お前が悪くね」と、言われますよね。
学校や社会で「イジメ」が正当化される状況とは「本人の過失」として責任を追求することが可能な場面です。
しかし、「イジメ」における「過失」の判定は極めて曖昧です。
なぜなら、「イジメ」られる本人(イジメられる側)の過失(責任追求)を問う裁量権は、常に「イジメる側」にあります。
容疑者を逮捕する警察官、被告人を裁く裁判官、どちらも「イジメる側」に裁量権が委ねられている状態です。
逮捕された容疑者が自己の「過失」を否定しても、それを判断する役割は「イジメられる側」にはありません。
ですから、「イジメ」られる本人の「過失」を問わず、はじめから「不利」な立場に身を置かれているのです。
そのため、「イジメる側」の裁量権(匙加減)で「イジメ」は「正当化」されます。
ですから、「イジメ」には「きっかけ」としての「理由」があるのです。
子供の「イジメ」を客観的に整理すると、その行為が「正当化」されるほどの「理由」は、ほとんど見つかりません。
しかし、イジメる側は「歪曲した理由」から、行為の正当化を図ります。
真実や事実は関係ありません。
「イジメる側」が「イジメ」を「正当」な行為と見做すことで「イジメられる側」に「責任」を転嫁するのです。
「お前が悪いから俺たちはイジメてる」このように。
日本の刑事司法制度では、これら一方的な行為を禁じる手段として、国選弁護人を選任することが可能です。
ですから、警察官や検察官又は裁判官と被告人の関係性は対等なのです。
ですが、「イジメ」では、行為の「正当性」を判断する「法律」も「弁護士」も存在しません。
なので、「イジメられる本人」と「イジメる側」の関係は一目瞭然です。

「イジメ」が「正当化」される状況とは「行為」に「正当性」が認めらる場合です。しかし、その「正当性」は「イジメる側」が一方的に判断します。刑事裁判で例えるのならば弁護士なしで裁かれるようなものです。

「イジメ」の行為に「正当性」が具備されているか審判することは困難です。
では、「イジメ」を「正当化」することは不可能なのでしょうか。
もしも、自己申告である「イジメ」の適用範囲を無制限に認めてしまうと「何も出来ない」世の中になります。
犯罪者を逮捕する行為も、自己申告で「イジメ」であると警察に訴えることで刑事処分を免れます。
ですから、「イジメ」の適用範囲を明確に設定する必要があるのです。
そこで、著者は考えました。
「イジメ」が目的化するのであれば「正当性」を阻却できる原則を。
つまり「イジメ」が手段であるのならば「正当性」は認めなければなりません。
「イジメ」は「イジメられる本人」に帰属するような「理由」から、その行為は実行されます。
外見や性格、学力や運動神経、行為や行動、身分や地位、これら他者と異なる特徴を「理由」に「イジメる」のですから、それは本人に帰属します。
山田君が嫌いな田中君が中島君をイジメることはしませんよね。
山田君が嫌いな田中君は山田君をイジメるはずです。
これらは「イジメ」が「目的」ですから、正当性は担保されません。
しかし「手段」として、田中君が山田君や中島君を「イジメ」るのではれば、その行為に正当性は具備されます。
実は著者も「イジメ」をしたことがあります。
それは「仕事」における「イジメ」です。
プロジェクトを展開するために人材を集めることがありました。
人材を集めるためには、プロジェクト(グループ)に加える人員を選出しなければなりません。
そこで考慮されるのは個々のポテンシャル(能力)です。
優秀の人材を抜粋することでプロジェクトが成功する確率が上がるのですから仕方がありません。
ですが、優秀な人材を選出することで、選ばれない他の人員を省くことに繋がります。
つまり「イジメ」です。
選ばれなかった人物が「イジメ」と捉えたのであれば「イジメ」は成立します。
もちろん、「イジメ」た意識はありません。
「イジメ」は自己申告ですから。
全員の感情を汲むとプロジェクトに加える人材の選抜は「抽選方式」が最善の選択と言えます。
「抽選」であれば誰も傷つきませんよね。
しかし「感情」を無視して「プロジェクト」における「利益」を優先しました。
傷つく人物の存在を想定していても選択は変わらなかったでしょう。
著者は「イジメ」が「正当化」される状態を「手段」による「合理性」に限定して考えます。
「イジメ」を自覚する本人(省かれた人物)に帰属しない「目的」(プロジェクトの成功)を「合理的」(利益追求)に遂行する「手段」として「イジメ」が偶発的に生じた場合には「イジメる側」に「正当性」が主張できます。
刑事司法も同様です。
警察官が犯人を逮捕する理由は犯罪者に対する恨みではありません。国民の生命及び財産を守る「手段」として「適切」な職権を行使したに過ぎないのです。
確かに、プロジェクトから省いた理由は本人(イジメられる側)の能力が低いことにあります。ですから、その原因は本人に帰属します。
しかし、それは「目的」ではありません。
イジメは年齢を重ねる毎に性質が変化します。責任や正当性の所在が大人と子供を比較すると異なるのです。
子供は当然のように正当化されない「イジメ」を行います。身体的な特徴を理由とした嘲笑などが主な事例です。

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