「いじめ」の構造と被害者の対応要領 なぜ人間社会はいじめを許容するのか

義務教育(高等教育)

いじめに対する保護者の対応

子供がイジメられていることに発覚した場合の保護者の対応について解説します。
まず、イジメられる経験によるメリットは一つもありません。
イジメられたことで「被害者」の気持ちが理解できるようになる、これはウソです。
もちろん、イジメの経験をバネとして社会で活用する人物も存在するでしょう。
されど、ほとんどの「イジメられっ子」は過去のトラウマから心を閉ざして排他的、さらには攻撃的な性格に変貌します。
人間の性格は遺伝により定められるのですから、そう簡単には変わりません。
ですが、人間はとある状況下では、遺伝子を超えることができるのです。
それは、生命の危機です。
現在の義務教育は洗脳であると揶揄されていますが、生得的な要素である性格を後天性の教育が上書きできる領域は著しく狭いと言えます。
ですが、模擬的に生命の危機を醸し出す手段として「体罰」などを含む教育では、人間を構成する遺伝子(性格)を改変することが可能です。
イジメは「体罰」と同じく、被害者に「生命の危機」を錯覚させますから、本来あるべき「性格」を捻じ曲げる効力が備わっていると言えます。
ですから、イジメられないに越した事はありません。
では、子供がイジメの経験を得て性格に及ぼす悪影響とはどのようなものでしょうか。

このように、イジメられた経験から、以後の社会生活に悪影響を及ぼすのです。
また、ほとんどの人間が主観的な性質から物事を断定します。
ですから、自分が経験した「イジメ」、つまりは、社会が自己に与える凡ゆる不利益(辛いこと)を、価値観の指標にします。
自分が経験した「不幸」は、他人も当然のように享有されるだろう、これら「寂しい社会」が当然であるとする価値観は、他人に対しても「寂しい」を押し付けるのです。
例えば、イジメられていた学生時代に、友人から筆記用具を借りようとお願いしたとします。
そこでは、イジメられていましたから、筆記用具を借りることは出来せんでした。
この経験を得て「イジメられっ子」は学習するのです。
社会の寂しいさを。
その「イジメられっ子」が社会に出た後に、部下から筆記用具を貸してほしいと懇願されたとします。
「普通」であれば「貸します」よね。
「寂しい社会」が価値観の指標として内在する「イジメられっ子」は、主観性から「貸さない」ことが当然(普通)であると判断するのです。
なぜなら、「寂しい社会」の構造が「当たり前」であり、他者の価値観を含めて共通の事項であると認識してるのですから。
そのような、寂しい世の中、貸さない世の中、これが「普通」なのですから、他者に対しても排他的になります。
余談になりますが、「イジメられっ子」は「物」に対する執着が強いように感じられます。
「自分の所有物」と「相手の所有物」に明確な区別をつけます。
貸すのであれば所有物を隠される可能性や、借りるのであれば恩を作ること、そのような黙示的な権利義務関係により自己を束縛されることを嫌うのでしょう。
善意や悪意に関わらず自己の行為や行動に制限を与えるものは主導権の譲渡に当りますから「イジメ」の経験から、これらの人的な接触を避けます。
ですから、自分の所有物たる筆記用具を貸す行為に戸惑うのでしょう。
今回は「貸し借り」を題材にしましたが、他の原理も同様です。
他者に「攻撃」されることに慣れた人物は、それが「当たり前」だと認識します。
ですから、自己も他者に対して「攻撃的」になるのです。
さらに、年齢を重ねるごとに「主観」は剥がれ落ちます。
すると、「当たり前」だと考えていた「寂しい世の中」が、実は「自分の周り」だけであることに気が付くのです。
義務教育を終えると進学又は就職をします。
さらには、仕事や結婚、同年代と比べて「寂しい」存在である自己が比較により明らかになります。
学校では、万人が共通して「寂しい世の中」であるとの認識をしても問題はありません。なぜなら、学校は誰であろうとも平等ですから。
しかし、学校を卒業すると「差」が顕著に現れるのです。
収入や身分、異性との出会い、これらを通して「寂しい世の中」に生きているのは自分だけなのではと「主観」が剥がれ落ちるのです。
そうすると、「イジメられっ子」は思うでしょう。
辛い経験をした「僕だけが」さらに「恵まれない」境遇に身を落とすことはおかしいと。
イジメは「人格」を悪い方向に変えます。
しかも「加害者」には「ノーダメージ」です。
もともと、人間は「イジメ」る行為を遺伝子にインプットしているのですから、加害者が被る心的な影響は軽微であると言えます。
ですから、「イジメ」は「被害者」のみが「損」をします。
このような悪影響から、保護者は「イジメ」から子供を遠ざける必要があるのです。
「イジメ」られる期間が長いほど、被害者の心的に与える影響が大きくなります。
そのため、子供が「イジメ」られていることに発覚したのであれば、早急な対処が重要です。
まず、絶対に「克服」させようとしてはいけません。
そもそも、イジメを自力で「克服」(対処)できる人物は、前提として「イジメ」られません。
「イジメ」られている自分を認めているからこそ、それらの環境に反抗できずに同調しているのですから「克服」は難しいでしょう。
ならば、「イジメ」に対する対処は二つです
保護者の介入」それか「逃避」です。
保護者は子供を守る義務があります。
「保護者」の存在が「イジメる」ことの「リスク」となれば、自然と「イジメ」は消滅します。
しかし、現在の保護者は世間体ばかりを気にして子供を助けようとはしません。
学校で発生する「イジメ」は教職員でしか解決できません。
先生が子供を監督するのですから、その責任は学校にあります。
学校で発生する「イジメ」を解決するためには「学校」を動かすしか方法が無いのです。
ですから、そのためには学校に圧力をかける必要があります。
保護者が学校に対して要求しない限りは現状打破は難しいでしょう。
「イジメ」の原理と同じく、相手から「めんどくさい」と思われることが重要です。
でなければ、相手は「動き」ません。
世間体と子供の人生、どちらを優先しますか?
記事で紹介しているように、イジメは人格を変えます。さらに知能を低下させます。
たかが「イジメ」だと認識している保護者は、その考えを改めるべきです。
何かを犠牲(世間体など)にしなければ子供は守れません。
最後に「逃避」です。
転校やフリースクール、通信制、経済的に余裕がある家庭ならば、これらの選択肢も考慮すべきでしょう。
さらに、経済的に「逃避」が難しい場合には「不登校」の選択も視野に入れるべきです。
「イジメ」られた経験から「不登校」になる子供は、心を閉ざしているため社会復帰が非常に厳しいです。
しかし、「イジメ」られる前、さらには傷が浅い段階でひとまず「不登校」にさせるのであれば、以後の対処が容易となります。
保護者の中には、「イジメ」に対処するために「不登校」にさせることは「大袈裟」だろう、と感じる方も多いと思います。
ですが、「イジメ」は子供の将来に悪影響を与える重大な事案なのです。
「不登校」が「大袈裟」なんてことは絶対にありません。
世の中には、持論を展開する保護者の方が存在します。
「イジメ」は「力」で克服すべきだ、このように。
「俺はこうしてイジメを撃退した」のだから「子供」も真似るべきである、なぜなら、俺の子供なのだから出来ないはずはない
自分と子供の姿を重ねる保護者が本当に多いのです。
血縁関係はあれど、保護者と子供は別人です。
保護者にできたことが、子供にできる、とは限りません。
あなたの顔と子供の顔、全く同じですか?
違いますよね。
性格やポテンシャル(能力)も原理は変わりません。
似ている箇所はあろうとも、別人なのです。
ですから、根拠なき「根性論」や「感情論」を並べて「イジメ」を「克服」させることは辞めましょう。
さらには、子供には必ず「セーフティ ゾーン」が必要です。
学校には居場所が無く、家庭でも学校に通うこと(克服すること)が「全て」であると保護者に言われたのであれば、子供は参ってしまいます。
子供に「逃げ道」を教えることも保護者の立派な役割であると、私は思います。

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