「いじめ」の構造と被害者の対応要領 なぜ人間社会はいじめを許容するのか

義務教育(高等教育)

イジメられる心理

イジメられる人物が陥る魔の心理があります。
それは、イジメる相手にも理由があるのだと思い込むことです。
もちろん、イジメられる人物にも理由があることは確かです。
その理由さえなければイジメられなかったのですから。
しかし、そのイジメられる理由を「相手は自分と仲良くしたいからだ」と解釈していませんか。
予め断言します。
イジメの原因は「あなたと仲良くしたいから」ではありません。
「あなたを排除したいから」イジメるのです。
イジメる相手を観察してみましょう。
彼らには「普通に話せる友人」が存在しますよね。
なのに、距離を縮めるために、あえて「あなた」をイジメる周りくどい手法をするはずありません。
イジメの被害者は「私と仲良くしたいからイジメてくるのだろう」このように思いがちです。
そうすると、気持ちが少し楽になりますよね。
相手は自分を「嫌い」なのではなく「好意的」に思っているからイジメてくるのだと、さらに、そのイジメの行為を友人関係を築く上での通過儀礼だと捉え、距離を縮めるためのアクションに答えることが出来ていない「自分も悪い」のだと考えていませんか。
「相手にも言い分はある」このような捉え方をすると気持ちが楽になりませんか。
このように、被害者は理由があると信じたい心理に陥ります。
なぜ、イジメる相手に塩を送ることで自分の気持ちが和らぐのでしょうか。
それは、理由を作ることができるからです。
理由があれば、その原因を改善することで現状を打破できます。
しかし、理由がなければ、お手上げ状態です。
生物は自己単体で解決できない事象を嫌います。
弱肉強食の世界では「自己の手に負えない」現象に遭遇した場合には「死」があるのみです。
また、「死」に近しい個体は「弱い」と認識されることで「生殖」にも不利です。
ですから、イジメにおいても被害者が「自己」のみで解決する姿勢、その手段として「理由」に固執する根拠の一つと言えます。
そのため、イジメにおいて、自己に帰属する理由がある(自分で改善できる範囲にあるイジメの理由)ことは「希望」なのです。
ですが、このような「思い込み」では「希望」には繋がりません。
イジメの理由は「楽しい」から「する」のです。
あなたが、足掻いてどうにかなる話ではないのです。
イジメの被害者は、まず「どうしたらやめてくれるのか」を模索します。
この「理由探し」が無駄なのです。
イジメは加害者にとって「リスク」がなければ、「やめる」ことはしません。
「理由探し」をする根拠は、自己に「理由があるなら改善して関係修復」を図ろうとする思惑でしょう。
たしかに、イジメに至る「理由」は存在しますが、それは「本人」が事後的に改善できるものではないのです。
さらに、「理由を探す」行為は「相手の視点から自己の立ち振る舞いを反省」することでもあります。
そうすると、自己にも少なからず過失の割合があるのだと感じてしまいます。
自分の手が届く範囲で、修正可能な理由があるにも関わらず要因を放置していた自己にも責任があるのだと。
自分にも「責任」がある、つまり、「悪いこと」があるから「イジメ」られても仕方がない、人間とは不思議な生き物で自己を加害する人物に対して、このように妥協することで精神的な安定を図ります。
しかし、加害者にも「イジメる」「理由」があるのだと考えたところで、イジメの解決にはなりません。
「精神的な安定」のために、あなたは妥協していませんか。
「理由」があるのだから「自分さえ我慢すれば丸く収まる」だから「我慢」しよう、このように。
「イジメ」られる原因の多くはマジョリティと比較して「普通」ではないからです。ですので、環境全体がイジメを容認する状況も少なくなく、そのような環境では教師ですらいじめっ子の味方をします。
いじめっ子が教師と仲が良い光景は残念ながら多く見受けられます。そうなると、環境全体がいじめられっ子を排除する雰囲気の中で「理由があるから仕方がない」と自虐的な思考のスパイラルへと陥るのです。「普通」ではないとは、学校の勉強や運動が「できない」、学校の友人と協調することが「できない」ことを示しマジョリティに属さない故に他人を不快にさせる状況から「自分は必要がない」と捉えてしまいます。
ですが、ここで「自分が悪い」と折れてしまえば、道は絶たれてしまいます。
はっきりと言います。
「イジメ」に対抗するためには「断固とした対決姿勢」を保持するしかありません。

著者
著者

「自分は必要がない」と考える前に。
人間の価値はどうすれば測れるのでしょうか。みんなが必要だと評価すれば価値が高いのでしょうか。しかし、物事の価値を一般的に定めると希少性が高いほどにその価値は高くなります。この原則ならば「普通」の人間ほど価値が低いものはありません。このような、難解な哲学を問う前に目先である自己の幸せを追及することが優先的であると思います。

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