警察官を辞める人の特徴は三つです。
以下の項目に該当する人物は「なる」べきではありません。
すぐに辞めます。
①警察に対して淡い期待を寄せる人間
理想と現実は異なります。
正義感が強い人間は警察官には適していません。
具体的に正義感とは「何」を指すのでしょうか。
それは、個人の「胸の内」に秘める感情です。
ですから、正義感の定義は人によって変化します。
前述では、正義感が強い人間は警察官には適していないと述べました。しかし、個人が定義する正義感が警察にとって有益な特性であれば、その感情は肯定されます。
例えば、正義感の定義を「上司に服従することで円滑な正義を執行できる」と位置付けているのであれば、警察組織にとって、価値ある存在となります。故に、このような正義感であれば、警察官に適している人材と言えます。
しかし、正義感の定義を「自己の良心に基づく正義の執行」と位置付けているのであれば、その人物は警察組織とは馴染みません。であるからして、正義の定義によって適合性の有無に違いが生じます。
今回は、警察と適合しない正義感を持った人間について取り上げます。
このような、正義感が強い人間は警察官には適していません。
正義感を満たすためにはトリガーとなる「行為」が必須です。
正義感が強い人間は、自己の感情を満たす過程において「行為」が妨げられる又は遂行できない事象を嫌います。そうなると、自己の正義感を満たせないのですから、仕事に嫌気を抱くようになります。
要するに、自己が正義感のために遂行したい「行為」と相手(警察組織)が求めている(してほしい)「行為」とが一致すれば良いのですが、難しいですよね。
何かしらの「行為」の遂行を「期待」して警察官になる人間は、現実とのギャップに直面します。
自分が理想とする「行為」と、相手(警察組織)が求めている「行為」に乖離がが生じることで、発生する現象なのですが、そもそも、正義感とは自己の「行為」の「規範」を「具現化」している節があります。
自己の正義感を満たせなければ、不快になる、これを逆説的に捉えるのであれば、感情に伴う起伏に「べき思考」が内在しています。具現化された概念であるからこそ、自己の規範から外れた定義や行為に感情を示すのですから、固定された価値観である「べき思考」は正義感には欠かせません。
理想として掲げる正義感には「べき思考」が備わっています。
ですが、現実の「警察」が「あなた」の「べき思考」に応じるだけの機関であるはずがありません。
「べきである」と断定することで、自己が理想とした正義感(警察官像)と、警察官として求められる性質が不一致だった際のギャップは必ず生じます。
正義感とは何かしらの行為を期待して断定する性質を持ちます。ですから、与えられる行為に柔軟性を持たせて対応することができません。具現化されて自己の中で固定された価値観(基準)は、他者による介入の余地がないことから、綻びが生じます。
このようにして、正義感を強く持った人間は、相手(警察組織)から提供される「行為」に不満を抱き辞めていきます。
そもそも、警察とは正義の味方ではありません。単なる法執行機関です。
法律は正義ですか?
不道徳な法律、理不尽な法律、日本の法律を遵守させる警察、本当に正義感が強いのであれば警察官にはならないはずです。
②警察官に対してリスペクトがない人間
警察官なんてショーモナイ仕事だ
このような人間は警察官を辞めます。
警察官になる前から、警察官を見下している学生も同様です。
理由を説明します。
警察官は組織統率の手段として「権威」を用いています。
年功序列や階級社会、このような体制は、身分の優劣を具体的な権威によって維持しています。ですから、権威に陥ることができない人間は、警察組織では馴染めません。
宗教でも信仰心が重要なように、組織の構造を維持するためは権威が必須です。宗教は信仰心から始まります。組織も権威なくして成り立ちません。そのため、仕事に対してリスペクトがない人間は、権威構造たる警察組織では、評価されません。
警察官若しくはその職務に対して「負の感情」があるのですから、権威に向けた反感や疑問が生まれてしまいます。
警察官の仕事は誰にでもできます。
ですから、このような才能も知能も必要ない仕事では、個々の意見を排斥した年功序列体制が維持されます。(関連)
誰にでもできる仕事、つまり、誰もが教わればできる仕事、故に年功者が権威となって部下を指導するのです。
誰もが教わればできる仕事なのですから、受動的な「教わる」が職務の根幹になります。「教わる」を中心とした仕事では、指導者(上司)が権威として、部下を監督する体制が好ましいと言えます。
そのため、権威の失墜に繋がる感情は、自己や相手にとって益をもたらしません。
上司に従わない、素直ではない、反抗的な態度、これらの根源は権威に従順ではないからです。結果として、権威を抱かせる条件たる「誇り」を失った人間は、職業不信に陥ります。
また、不信感から自身の仕事が「嫌い」になります。「嫌い」な仕事では「良好」な「パフォーマンス」を発揮できませんよね。
さらに、このような仕事では「気持ち」が重要となります。(詳細)
警察官の仕事は「誰でも」できます。
しかし、前提として「仕事」とは「辛い」ものです。(詳細)
「辛い」仕事を「継続的」に続けるためには「能力」と同じくして「気持ち」も大切になります。(関連)
そのため(モチベーション)の「手段」として「疑問を抱かない(従順)」ことが求められるのです。
警察官を早期に辞職する人間の特徴としては「仕事に誇りを持てず」「権威主義に馴染むことができない」以上が挙げられます。
時には無能を権威と信じ込み、仕事に熱意を持って取り組める人間こそが、警察官として長続きします。
ですから、権威主義に陥ることができない「賢い人間」は警察官になるべきではありません。
③義務教育に疑問を持っている人間
警察官の採用試験に合格すると警察学校に入校することが認められます。
警察学校の名称にも「学校」が付いているように、警察学校とは義務教育の延長線に位置する場所です。
ですから「教場」と呼ばれる「教室」には「先生」すなわち「教官」が「生徒」である「巡査警官」を指導します。
そこでは、義務教育での「生徒」と「先生」の関係に瓜二つです。
これらは、警察学校に限らず卒配後も同じような関係が続きます。
「先生」から「先輩」や「上司」になるだけで、根本は変わらないのです。
そのため、義務教育又は学校制度に疑問を持つ又は馴染まない人間は、警察の社会で上手く振る舞うことは難しいでしょう。
学校制度では「みんな」と同じ価値観を享有します。
共通の価値観を有する環境では画一的な統率が可能になるのですから、自己の行動規範を他者に依存させます。
本来であれば行動又は思考の根拠(アイスクリームを食べる=私がアイスクリームを食べたいから)は自己に帰属するのですが、日本の教育では周囲(他者)との共通項を相互に享有(アイスクリームを食べる=みんながアイスクリームを食べている又はみんなの好物がアイスクリームだから)させることで人間社会(コミュニケーション)の形成を促進させてきました。
みんな「努力」してるから「努力」する。
冷静に考えてみると恐ろしいことです。
みんなが「する」ことを「しなければ」ならないとする風潮は、自己の思考や行動を他者に委ねている状態なのですから、動物には無い人間らしさを放棄していることになります。
人間は「社会的な動物」だと言われています。
しかし、社会性を保つためには自己の権利を共同体に譲渡する必要があるのですから、「自由の刑」に科せられている人間はごく一部なのではないのでしょうか。
「自分は自分」「他人は他人」このように考える自由人は、群れることを嫌います。
私は、学校の「みんな文化」に馴染めない内の一人でした。
「みんなしてるよ」「みんな困ってるよ」よく学校の先生に言われていました。
その度に理解に苦しみました。
「だから何だ」と。
どうして私の行動や思考が他者の気持ちに影響するのか、なぜ影響を伝播させようとするのか、自己の感情は自己の責任で管理されるべきです。個々の人間の行動や思考が他者の権利や名誉を侵害しない範囲において、人々の感情は独立し、自身の感傷も自己の責任で処理されるべきなのです。
しかし、社会性の構築に優れた人々は自己の感情も他者が負う責任として振る舞います。
このような、自己や他者の感情を一括にした「共同体」としての責任を無意識に享有(受け止め)し相互に処理(請け負う)することのできる人間は「みんな文化」の一翼を担えるでしょう。
その価値観(みんな文化)を扇動する権威たる先生又は先輩然り慣習に従順たる学生(人間)は警察学校でも問題なく職務に取り組めると思います。
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