警察学校の環境に耐えられない人物の特徴とは[入校待ちの学生に向けた記事] 

警察関係
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警察官を辞める人物の特徴とは?

まず、警察を辞める人物とは、仕事との適性が合わないから退職をするのです。
では、警察官の適性とは何を指すのでしょうか?
著者は以下の二つが適性であると考えます。

「向いている」
「なれる」

どちらも、似たような意味を持つ言葉ですが、その内容は大きく異なります。
「向いている」とは、警察官として職務を遂行するにあたり、自己の感情を充実(やりがい)させ且つ国民の期待に答える(検挙や応接等の求められる職責を果たす)人材を示します。
「なれる」とは「採用試験」で受かる人物、つまり、警察組織が「求めている」人物です。そのため、「なれる」では、国民や社会が求める警察官像は考慮されません。
「向いている」とは、その職に就くことで、自己、国民、どちらも満足できる状態を示し、「なれる」とは警察組織(採用)が欲している人物を言います。
そのため、採用試験においても「向いている」を意識するあまり「なれる」(採用したい人物)から離れてしまう受験生が多いのが現状です。

警察官の適性は主に「向いている」と「なれる」で測られます。
「向いている」状態であっても「なれる」と乖離し過ぎることで、警察組織での居心地が悪くなりますよね。反対も同じです。
このような、「向いている」と「なれる」の概念の他にも適性に関わる分類が存在します。
それは以下の二つです。

➀警察学校に適している人材
➁警察官の仕事に適している人材

今回は「➀警察学校に適している人材」について説明していきます。
「➁警察官の仕事に適している人材」に関しては以下の記事を参照してください。

警察官は採用されると、まずは全寮制の警察学校で教養訓練に励みます。大卒採用者は六ヶ月、高卒採用者は十ヶ月の期間です。
特に大卒採用では警察学校での研修期間が短いようにも感じられますが、それでも、厳しい訓練と環境のために退職する学生が少なからず存在するのです。
「警察官の採用試験に合格したが内定を承諾するか迷っている」「警察学校でやっていけるのか不安である」そんな読者は本稿を参考に進路を検討してみて下さい。
警察学校の生活に耐えられずに「辞めてしまう」人物とは以下の項目に当てはまる人物が多いように感じます。

・友達と接することを楽しめない人
・義務教育に馴染めなかった人
・言われたことができない人
・馬鹿になれない人
・メンタルが弱い人

友達と接することを楽しめない人

友人と過ごす時間が楽しいと思えない人物は警察学校での生活は厳しいように思えます。
家族を除く誰か(友人等)と一緒にいることで精神的に安心したり心の拠り所となる感性は、中学、高校など、今まで生きてきた環境から当たり前のように養われてきたと思います。
友人と食事する、友人と遊びに行く、これらは任意的な社会行動であり強制されているのではありません。つまり、友人と過ごす時間が「楽しい」と感じるからこそ、このような任意的な社会行動を行うのです。
ですが、中には友人と過ごす時間が「楽しい」と感じることができない人物が存在します。
友人と一緒に過ごしていても「楽しい」と思えない、食事や遊びに出かけてもどこか一歩引いた見方をしてしまう、このように。
このような、友人と接する時間を楽しいと思えない人物は、他者と比較して「楽しい」と感じる基準が異なることが原因です。
そのため、友人との交流が楽しめないのではなく、内面から「楽しい」と思える共通の価値観を有した理解者が少ないのだと言えます。
これら、理解者が少ない人物は、共通の価値観を持つ他者を探し出す行動(友達作り)に苦労するため、場当たり的に人間関係を構築するのです。故に、友人と仮定(理解者を見つけるまでの仮の友人)する他者と過ごす時間を「楽しい」と思えないのです。
では、警察学校で、友人との交流を「楽しい」と思えないことによるデメリットは何でしょうか。
それは、ストレスの発散が難しいことが挙げられます。
警察学校では自由がありません。
特に入校して間もない期間は「食欲」「性欲」「睡眠欲」人間の欲求全てが管理されています。このような環境で、息抜きは「同期である仲間(友人)」との交流しかありません。
他にストレスを発散する手段があれば問題はありませんが、友人との時間を楽しいと思えないのであれば精神が摩耗してしまいます。
友人との馬鹿騒ぎ、冗談の言い合い、これら交流を通して「楽しい」と思えるからこそ、極限の精神状態でも「笑える」のです。
しかし、友人との交流を楽しめなければ、警察学校で息抜きする手段は乏しいと言えます。

義務教育に馴染めなかった人

まず、義務教育に馴染めないとは、どのような人物を言うのでしょうか。
それは、「普通」ではない人物です。
大多数の人間が持つ平均的な価値観や感性と近しいと「普通」であると定義つけられるわけですが、相対にこれらと乖離する度合いが強ければ「普通」ではないと言えます。
当然ですが、人間に限らず生物は自己と異なる性質を排斥しようとするものです。
ですから、義務教育で「普通」と乖離する人物が学校生活に馴染めない現象は自然の摂理とも言えます。

それでは、義務教育に馴染めない人物が何故警察学校での生活に苦労するのでしょうか。
それは、警察「学校」だからです。
警察学校は、学校教育の延長線です。
教場と呼ばれる教室(クラス)で、義務教育と同じく日課に従い授業を受けます。そして、そこには教官や助教と呼ばれる「先生」がいます。
まさしく、警察学校とは「学校」なのです。
さらに、義務教育に馴染む人物は権威に従順な傾向があります。
権威主義と言うのでしょうか。
信頼や尊敬できる人物を権威と定めて意思決定を委ねる人間の特性は義務教育の脱個性的な教育で補強されます。
なので、義務教育に馴染まない人物は、指示されて動くことに抵抗を覚えます。何故なら、学校での「先生」を「権威」として認識することが出来なかったからです。
そうなると、警察学校で学生に課される命令や課題についても、権威を盲信し「馬鹿」になることが出来ないのです。
「普通」ではないから「警察学校」では上手くいかない。
では、具体的にどのような実害があるのでしょうか。
それは、他の人々と価値観が異なることで生じるトラブルです。
例えば、日常生活におけるマナーについて。
寮生活を経験した男子であれば経験があると思いますが、体育会系のコミュニティーでは仲間内で躊躇わずに放屁やゲップをする人物がいます。
著者は昔から理解できないのですが、よく人前でそのような「下品」な行為ができるのかと疑問です。
しかし、このような「下品」であると感じることが「普通」とは異なる価値観の違いなのです。
これら、「下品」と感じる行為を彼らは「下品」と思わず、共に容認しているからこそ、そのような行為が「価値観」の基準として浸透しています。ですが、この「大多数」が賛同する「価値観」の基準は、あくまで、「大多数」に含まれる人物が得る恩恵に過ぎません。
著者が経験した事例として、食事の作法や貧乏揺すり、洗濯物の干し方等については「マナー違反」と称して叱責するにも関わらずに、自己は平然と「放屁やゲップ」を食事中にも関わらずに行うのです。つまり、集団の「価値観」の基準として、食事の作法や貧乏揺すり、洗濯物の干し方のマナー違反は許容できず、放屁やゲップなどのマナー違反は、その「大多数」が不快感を示さない故に許される行為であると「境界線」が引かれているのです。
このように、不快に思う現象や、許せる行為と許せない行為の狭間は人それぞれと言えるのですが、それでも、大多数の人々が共通に感受して価値観を大まかに断定する基準(貧乏揺すりはダメでおならはイイなど、大多数が同じ認識をすればそれが価値観の基準となる)は存在するのです。
ですから、「大多数」が定める「境界線」の基準に適応できない「普通」ではない「人物」は価値観の違いから日々の生活においてストレスを溜め込むでしょう。
特に警察学校などの閉鎖された環境では、大多数が信仰する意志は集団心理から強くなります。ですから、これら大多数が定めた価値観の基準と馴染まない人物は警察学校での生活に苦戦すると思います。

言われたことができない人

「言われたことができない」とは、警察学校で習う授業の内容についていけないことを指します。
授業は勉強だけではありません。
術科と呼ばれる「体で覚える」授業を含みます。
柔道や剣道、逮捕術の他にも術科授業はあります。
そこでは、主に「体で覚える」ことが求められます。
例えば、敬礼の作法なども「体で覚える」ことに含まれますよね。
さらに、授業に限らず、決められた文言を定められた動作に基づき発言する申告と呼ばれる行いも「体で覚える」ことに該当します。
警察学校では、このように、授業、課外を問わず「体で覚える」ことを多く要求されます。
難しく考えず「体で覚える」とは「器用」に物事をこなす能力だと捉えて頂けば差し替えありません。
そして、これらが「できない」のであれば「言われたこともできない」人間だとして排斥されてしまうのです。
警察学校は「学校」と呼ばれていますが、その日々の時間には給金が発生しています。「言われたこと」とは「仕事」です。
つまり、「言われたこと」ができないとは「仕事ができない」とする意味と等しいのです。
そして「体で覚える」ことは、得意不得意である本人の生得的な要素(遺伝)により優劣が付きます。
ですから、「努力」では、どうにもならない場合もあるのです。
著者も「体で覚える」ことが苦手なタイプの人間です。
そのため、同期の仲間ができることが自分だけできず、人一倍苦労した思い出があります。
そんな「体で覚えること」ですが、自分が、得意なのか、苦手なのか、事前に知る方法があります。
まずは、幼少期に誰もがする「手遊び」です。両親に自分が「手遊び」が得意であったかを確かめてください。他の児童よりも「手遊び」の習得が遅れていた又は苦手意識から避けていた等があれば「体で覚えること」は得意分野ではないと分かるはずです。
次に、ステップができるかどうかです。これも、両親に幼い自分がどうだったのか、確認してみましょう。
他にも、自分自身で知る方法もあります。
それは、高校や中学での体育の授業です。幼少期とは異なり自分自身で振り返ることが可能です。
学校の授業で「ダンス」を練習したと思います。
どうでしたか。
振り付けなど、リズムに合わせて体を動かすダンス、苦手な人物は「体で覚えること」に難がある可能性が高いと言えます。
これらを参考に「体で覚えること」について、自己の適性と向き合っていきましょう。

馬鹿になれない人

馬鹿になれない人物は、警察学校での生活がストレスに感じるでしょう。
理不尽な指示、厳しい規律、ほとんどの学生が入校当初には疑問を抱くはずです。
「こんなこと何の意味があるのか」と。
しかし、そんな馬鹿げた指示や規律であっても、守れないことで叱責される経験から、考えるよりも怒られないために全力で従うことに意識を向けます。
さらに、このような「馬鹿」は周囲に伝播します。「馬鹿げだ」「くだらない」ことを誰もが「神聖な行い」であると認識するのです。
当初は、「馬鹿」を強要する役割は「教官や助教」などの警察学校職員でしたが、徐々に、その役割が警察学校学生へと分担されていくのです。
「馬鹿げた」ことは「馬鹿」にならなければできません。
でなければ、「馬鹿げた」環境で「馬鹿」になれなかった人物は「浮く」のみです。
では、「馬鹿になれない人」とは、どのような人物なのでしょうか。
以下の記事では、そのような「馬鹿になれない人」、「馬鹿になってしまう人」について解説しています。

警察学校では、「馬鹿になれない」と、その環境に馴染むことが難しいと言えます。
日々の訓練や授業、どんな些細な行事でも、全力で取り組む必要があります。
そして、警察学校で取り組むべき課題の大半は「馬鹿げた」ことです。
そして、「馬鹿げた」ことをさせるためには「馬鹿」が求められます。
なので、警察学校には「馬鹿」が多いと言えます。
このような、「馬鹿」が多く存在する環境での生活に嫌悪感を示す人物は警察学校に入校するべきではありません。
「馬鹿になれない」人物は「馬鹿」の思考や行動に触れることでストレスを感じるでしょう。

メンタルが弱い人

警察学校での退職者のほとんどは入校してから二ヶ月以内で辞めます。
なぜなら、最初が一番厳しいからです。
警察官としての規律を叩き込み、上下関係を明白にするために、入校時は「絶対に逆らえない」空気感を心身共に刷り込ませます。そして、警察学校では、このような統率に欠かせない教育課程を踏襲した後から、実務又は技能を教えるのです。
そのため、メンタルが弱い人物は前半に辞めていきます。
しかし、彼らは「甘い気持ち」で警察学校に入校したのではありません。誰もが「卒業」することを前提に警察学校に入校したのです。
なのに、なぜ辞めるのか。
それは、自己のメンタルの強度が分からないからです。
警察学校での叱責は、誰もが経験したことがありません。
一般的な学校で、警察学校の教官や助教のような振る舞いで生徒に接したのであれば、直ぐに社会問題になります。
ですから、警察学校での叱責される度合いを経験したことがある人物は少なく、メンタルの強度を測るための指標が乏しいのです。
著者もそうでした。
警察学校での生活は想像よりも「楽」に感じていました。入校時は体罰も覚悟していたのですが、そのようなことは一才なく「思っていたよりも厳しくないな」と高を括る思いを抱いていました。しかし、そのような「想像よりも軽易」な環境ですら、自己の精神は耐えられずにいたのです。
想像よりも軽易な環境、けれども、想定よりも自己の「精神」が脆弱であることの誤算から、警察学校での生活はストレスを溜め込む毎日でした。
自分の「心」がどこまで「強い」のか、これは実際に経験してみなければ分からないものです。 

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